こいつの涙を見たのは、一体何年ぶりだろう。
ぐすぐすと鼻を啜って止めどなく落ちる涙を拭う様は、いつものらしからぬ風情で俺は酷く驚いた。
年相応に見えるが、それよりももっと幼くも見えるその泣き顔。放っておくことが出来ずに俺は半時ほどこうして彼女の傍にいる。
早く泣きやめばいいのに。
小刻みに震える細い肩を抱いてやりながらそう思った。
延々と泣くばかりのこいつに付き合って教室の隅で蹲っているのが面倒だとか、時間が勿体ないとか、そういうわけじゃない。泣きたいなら何時間だって付き合ってやる。それでお前の気が済むならずっとこうして抱いていることも吝かではない。
ただ、俺はが笑っている顔が気に入っていて、泣きやんだ後にその表情を見せてくれるならなんだってすると言いたいのだ。
俺はこいつに惚れている。
どこかの鍛錬馬鹿が聞いたら、三禁だ何だとやたらと五月蠅くなりそうな気がするが、あいつのことなんざどうだっていい。ある日、自分の気持ちに気づいてしまってからは、それは偽りようのない事実だった。
しかしこの想いを告げることはないだろう。お互いの立場と、葛藤を思えばそう容易く口にできる言葉ではないのは明白だった。
せめてお前がただの町娘か、学園の事務員か何かだったら或いは違っていたのだろうが、現在も過去もずっとこの位置にいるお前を好いたのだからその過程を否定することはできない。
肩を抱くくらいは許してくれる立ち位置であるなら、俺はそれを壊さないようにじっと耐えるしかないのだ。
大丈夫だ。何ともない顔をするのも、我慢するのもこの六年間ですっかり身につけてしまった特技だ。くだらない。
「ごめんね・・・留三郎」
不意にが呟いた。まだ落ち着かないのか、随分掠れた涙声だ。
痛々しい様子に、俺の胸がチクリと痛む。
ばつが悪そうに合わせない視線。それが空を彷徨っているのが嘆かわしい。見るともなく見るのなら、俺を眼に映せばいいのに。
「いや、構わない。子供みたいにぴーぴー泣いてる奴をほっておくのも気分が悪いしな」
だから気にするな、と下級生にするように頭巾を取った頭を撫でた。
本当に気にしないでくれ。お前がこんな風に無条件に信頼していい男じゃないんだ。
その僅かな気遣いさえ心苦しい。そして、そのいじらしさにますます恋情が募るばかりだ。
離れるべきかもしれないが、離れがたい。もう少しこのままがいい。
はそんな俺の思惑に気付く様子もなく、ただ頬を伝う涙をぐしょぐしょになった手拭いで拭いた。
「・・・訊かないの?」
「ん?何を?」
「泣いてる理由・・・・」
「ああ・・・・理由ね」
彼女の問いを繰り返した。
訊きたくないわけなどないさ。知りたいに決まってる。
どうして泣いている?
何か嫌なことでもあったのか?
まさかどこかの無体な男にでもからかわれたか。
だったらこの俺が黙ってなどいない。すぐに闇討ち、いや公衆の面前に引きずり出して血祭りにあげてくれる。最期は適当に路傍にでも放りだして、日ごと朽ちていく様を見届けてやる。
それくらいの仕打ちは当然だ。ああ、でもこいつはそういうの嫌がるんだろうか。そんな仕打ちは可哀想だと言うかもしれない。は誰に対しても寛容な気質を持ち合わせていて、それが美徳の一つに数えられる。それがたまに俺を悩ませることもあるが。
少し考えて、結局出た答えはいつもと同じだった。
お前が嫌がることはしない。それがどんなに理不尽な理由からのものであっても。
、お前に嫌われるくらいなら、俺はどんなことにも目を瞑って見ないふりをするよ。
だから俺は、彼女がもうずっと騙されている兄貴面した笑顔で言った。
「言わなくてもいい。泣きたいだけ泣けよ。こうしててやるから」
肩をしっかり抱き寄せて、背中を撫でた。
強張っていた肩の力が抜けたのか、は俺の肩に顎を乗せてふぅ、と小さく息を吐いた。そうしてまた喉を鳴らして泣きだした。
そうだ、それでいい。
縋って泣くのは他の誰でもない、俺にすればいいんだ。
抱いた腕に力がこもる。ああ、駄目だ。このままずっと離したくない。
想いは言わないと決めているのに我ながら女々しいな。悔しいやら情けないやら、こんな気分のままではそのうちボロでも出してしまいそうだ。
仕方がないからせめてもと、無害な兄のような顔をして打算で手に入れたこの立ち位置が今になって煩わしいものに感じた。
いっそ言ってしまえたらいいのに。
愛していると、ずっとお前に焦がれているんだと。
それで、あたしもそうだった、と一言言ってくれたなら、手をとってここから逃げることだって出来る。二人なら追手の大半は蹴散らせるだろう。彼女は優秀で、なかなかの狡猾さを持ち合わせている。
そんな実現しそうもない夢想に浸っていると、腕の中でが身じろいで胸を押した。
「ありがと。もう平気」
泣くうちに落ち着きを取り戻したらしい。
新しく取りだした手拭いでもう一度顔を拭くと、立ち上がった。ついでに俺の手をとって強引な所作で立たされる。
腕の中の温もりが、離れた場所でばさばさと長い髪を捌くのを寂しい気持ちで見る。
もう泣いてはいなかった。多少眼が腫れていて鼻声なのが気になるが、もう少しすればいつも通りの様子になるだろう。立ち直ったようで良かったけれど、残念な気がするのは仕方ない。
が顔を上げて俺を見た。何か言いたげにあーとか、うーとか言ってる。ばつが悪そうにしているから、俺を頼ったのを申し訳なく思っているんだろうな。
急かさず待っていると、結局それしか出てこなかったらしい。
「本当にありがとう。何も聞かずに泣かせてくれて、その、嬉しかった」
照れたように言って、微笑んだ。
褒めるとか、見惚れるとか、柄にもないと理解しているが、言いようもなく可愛らしい笑顔だった。
その笑顔が好きだ。その表情が見られたなら、俺が思い悩んだ時間なんてなかったことにできてしまう。不覚にも顔がかっと熱くなってしまうのは不可抗力だ。
照れ隠しにぐしゃぐしゃと頭を撫でるが、困った顔をするだけで逃げようとはしない。
「鼻たらしてお前はしんべヱかってんだ。ほら、かめってばほら」
「うん、そうする」
「あと、眼冷やしとけ。ほっとくと明日酷いぞ」
「うん、後でおばちゃんに氷もらってくる」
「顔洗っとけよ。誰かに見つかったらその顔どうしたって五月蠅いぞ」
「うん、すぐ井戸に行ってくるね」
「事情聞かれたら適当に誤魔化せよ」
「うん、山田先生の女装見てビビったって言っとく」
「あとは・・・・」
気をつけることってなんだ?
心配するあまり、色んな不安要素が考えられた。この学園には関わると厄介な人間が多すぎる。
ああ、どうせなら部屋まで送ってやればいいんだ。そうすれば誰に絡まれても俺が守ってやれる。
そう提案しようと口を開きかけるが、がくすくすと笑いだした。
「な・・・なんだよ。何がおかしいんだよ」
「いや、だって留三郎・・・あはは」
「あははじゃねぇよ。何笑ってんだ。こっちは真剣に・・・」
言うと、今度は俺が宥めるように肩を叩かれた。
なんだか釈然としない。
は一頻り笑うと、今度は違う意味で浮いた涙を払って言った。
「わかってる。わかってるよ、留三郎。留三郎はあたしのことになるといつも真剣になっちゃうんだから」
だから、ちょっと気が抜けた。安心したの。
にこりと笑うに、俺のほうが安心した。本当にもう大丈夫のようだ。泣いた理由は分からないが、彼女が自分の中で折り合いをつけられたのならそれでいい。
せいせいした、という風に伸びをしては教室の出口へ歩みを進めた。しかし、途中ぴたりと立ち止まり、横顔のまま言う。
「もし次に留三郎が泣いたら、あたしの胸をかしてあげるわね」
「はぁ?!」
「一人で寂しく泣かせたりしない。ずっと傍にいてあげるから」
予期せぬ台詞に思わず声がひっくり返ってしまった。
しかし、は本気らしく、絶対だからねと言い置いて去って行った。
胸を貸すとは一体どういう意味なんだか。時々耳にするあいつの男前発言には勘違いする被害者が続出で参っている。
同時に少しの落胆が俺を襲う。
要するに、全く意識されていないということか。
「言っときゃよかったかな・・・」
そうしていれば、あんなこと言えたものではないはずだ。
まあ、でも暫くはそれでいいかもしれない。
もし、お互いの事情が変わって何も構わなくていい時がきたなら、その時はきっと躊躇いなく言うことが出来るはず。
誰が相手だろうと出し抜かれない自信がある。それほど俺たちの信頼は強固なのだ。
いつか彼女の隣に、恋人として立てるようになりたい。
それまではあの無条件な信頼を甘受していよう。
あの笑顔がいつか、俺だけに向けられる未来を思い浮かべながら。
恋情モラトリアム
初rkrnのようで実はそうでもない第一作目です。
何かとこれが出来る前にボツになったものがいくつかありますので・・・。
なんでヒロインが泣いてるかとかは特に設定してません。
あくまで食満の主観のお話ということで。
しつこいほど保護者してる食満先輩を書きたかったんですが、なってますか?
あとあんまり甘くなくてすみません!あたしにはこれが限界;
(2012/03/11)