「・・・・・・何だ、これは」





ブリーフィングルームへと続く廊下を歩いていた刹那は、途中扉から細く灯りの漏れる部屋に差し掛かった。
時刻は真夜中。
一体何事かと灯火の点いた食堂を覗けば、開けた空間に揺れる緑色。刹那が生まれ育った地では中々見られない植物が、食堂の一角に鎮座していた。
木で言うところの幹は一定の長さで括れて細い。枝ぶりもやはり細く、華奢で折れそうなその先には、触れると少し引っ掛かりのある細い葉が茂っている。確かこの植物の名前は笹。
武器どころか、物資とも到底思えないその代物に刹那は不可解に首を傾げる。
こんなものが何故プトレマイオスの中に。
刹那はそんな純粋な疑問を小さく口にした。
さして大きくもないその声は、夜の帳に静まり返った空間によく響く。
それを察したのか、笹の奥に今まで気付かずに隠れていた人影が顔を見せた。





「あら、刹那じゃない」
・・・」





よく見知った美姫の面に、刹那は手を掲げて挨拶をする。は、こんばんは、と珍しく化粧っ気のない笑みを返した。化粧の装いがなくとも、その美貌は陰りを感じさせない。寧ろ余計なものが取り払われて、物理的に障害がなくなったような気さえした。その僅かに見せられた隙に心臓の鼓動が知らず早まる。刹那はそれを悟られないよう、ごく自然に振る舞うことに徹した。





「これは何だ?何故こんなところに笹が?」





自分より先に食堂にいたのだ。彼女なら何かを知っているかも知れない。
刹那が問うと、彼女は葉を指先でゆさゆさと揺らしながらどこか自慢げに言った。





「どう?立派な笹でしょう?ここまで持ってくるのは結構大変だったわ」





その様子と言動から、が持ち込んだものだろうと刹那は察する。
では、一体何のために?
質問には眼を丸くした。日本人には珍しい青海の瞳が数度瞬く。





「今日、何の日か知らない?」
「何の日?何か特別な日なのか?」





重ねて尋ねた刹那に、は徐に胸元に手を突っ込んだ。白く豊かな乳房が半分ほど見え、慌てて視線を反らす。彼女はそこから携帯端末を取り出すと、ボタン操作でカレンダー機能を呼び出した。それを刹那に見せる。





「今日は7月7日。七夕よ。七夕は知っている?」
「七夕・・・・」





聞いたことがある、と刹那は頷いた。
天の川という夜空を横切る光の帯に隔てられた男女が、その日一日限りの逢瀬を果たすという伝説だ。確か国ごとに七夕自体の話というものは異なるようだが、刹那が4年の放浪期間に耳にしたのはそのようなものだった。





「7月7日に笹を飾って、願い事を書いた短冊を吊るすのよ」





そういう話も聞いたな、と記憶を辿る。
は笹に飾る飾りや、色とりどりの短冊を見せて、そのうちから一つを取り、刹那に手渡した。
受け取ったのは青い短冊。上部で穴が開けられ、紐が通されていた。





「朝になったら皆にお願い事を書いてもらおうと思って。ちょっとした余興よ」
は本当にこういうのが好きだな」





日々戦闘ばかりで滅入ってしまう仲間のために何か楽しみごとを、と常に気を配っているのだろう。
その細かい気遣いに、刹那は感謝する。彼女は何も言わずただ微笑むだけだった。
手にした短冊を指さしては言った。





「刹那も何か願い事を書いてみない?」





そのために手渡してくれたことは刹那にも分かっていた。
差し出されたペンを取って、何を書こうかと思案する。しかし数分が過ぎて、何度か紙にペンを走らせようとするものの、結局は手を止めてキャップを閉めてしまう。
その横顔には苦悩、というべき色が揺れていた。
は刹那の顔を覗き込んで尋ねた。





「貴方の願いはなぁに?」
「・・・・わからない」





刹那はさっきとは打って変わって、堅い表情で項垂れた。
きっと願い≠ェないわけではないのだ。願い≠ニいうなら、世界を変革させるという思いがそれになるだろう。
しかし、それを本当に今ここで願っていいのだろうか。
今更ながら、自分のしてきたことを振り返る。
たくさんの人を殺してきた。初めは両親。KPSA、サーシェスから「神に認められるため」だと教えられこの手にかけたのは随分昔のようだが、一方で昨日の出来事のようですらある。怯えた母の顔が瞼の裏に焼きついている。眼を閉じてもあの光景が消えない。後ずさりながらやめてと叫ぶ。その足元には彼女の夫、刹那の父が物言わぬ肉塊として横たわる。続く言葉も覚えている。やめて。何故。どうしてなのソラン。
その後は一体何人を殺してきたかは分からない。それほど罪に塗れた掌だ。その手で何を望んでいいのかは分からない。
変革を望みつつも、一方ではそれは願い≠ナはなく、そもそも目的だ。目指す力はそこにある。
ならば自分には願い≠ネどないのではないか。
血塗られた手に願い≠書く資格などないのではないか。
そこには常に迷いのない瞳をした青年ではなく、悩み、傷ついて惑う、便宜上大人になっただけの少年が蹲っていた。
その変化をも感じていた。
はそっとその肩に手を重ねた。彼のすぐ近くに立ち、そっと頭を抱きこんだ。硬い質の髪を撫でてやると、びくりと身体を固めた。
こうされることに慣れていないらしく、身を預けてはくれない。しかし構わずに撫でていると幾分かの力が抜けてきた。
は囁くように吐息を漏らす。





「誰しも願い≠ェあってそれを成すために動くのよ。願うことはいつか希望になる。だから貴方が何かを願うことに臆病になる必要はないのよ」





刹那の反応はない。は言葉を続けた。





「貴方が何を願ったってそれは他人にとやかく言われることじゃない。願うことは自由よ。だから、これから貴方が生きていく標として、何かを願うことは決して悪いことじゃないわ」





の囁きに次第に高ぶった心が凪いでいく。
罪を犯した自分でも彼女は願うことは自由だと言ってくれる。穏やかな声は真摯で嘘がない。彼女が衷心から言ってくれたことだと感じる。
抱かれたままで居心地の悪い気はしたが、それは慣れていないだけで彼女にそうされることは不思議に嫌悪を感じることはなかった。
暫くは髪を撫でてくれていた。柔らかな感触に思考さえ閉じてしまいそうになるが、ふと刹那の中にまた疑問が浮かぶ。





の・・・願いはなんだ?」





これほど願うことの有用性を説いた彼女には何か叶えたい願いがあるはずだ。
刹那はそう思って彼女に尋ねたが、返事がない。
不思議に思い頭をもたげると、驚いたような顔がそこにあった。





「あたしは・・・・」





言い澱んで身体を離す。去り際に頬に触れた彼女の指が、抱きしめられた時よりひんやりと冷感を帯びていた。
考え込むような仕草をして視線を足元になげる。





「あたしは・・・いいのよ。あたしは」





はぐらかすような微笑みに違和感を感じる。
あんなに沈んだ自分を励ましてくれた彼女が途端に頼りなく思えた。
はいつもどこか不均衡な位置に立っている。
刹那は口に出すことはなかったが、以前からずっとそう感じていた。
彼女の柔らかな掌の上には、常に現実と理想が相殺しあっている。そしていつも彼女が最期に手にするのは現実の方。個人の理想とするところはいつも切り捨ててしまって、集団としての利益を優先してしまう。そこには恐らく彼女が良しとするところは殆ど見いだせないに違いない。
組織柄、また与えられた立場上、彼女がそうすることは正しいと言えるのかもしれない。しかし、刹那はそんなことは捨て置いてもっと彼女の本質を知りたかった。
どんな人物かは知っている。でも好きなことは知らない。
得意なことは知っている。でも苦手なことは知らない。
知りたい。
お前は何を願うんだ。
逃げた手を無意識に追いかけた。
の青い眼と自分の瞳がかちりと合う。
綺麗な色だと思った。
眼が合っても、やっぱりの考えていることが分からない。
指を掴んだ。
離れないようにきつく握りこむ。





「・・・俺は」





冷たい。
俺の体温で温かくなればいいのに。





「俺はお前の願い≠ェ叶えばいいと思う」






は一瞬瞳を丸くして小首を傾げた。座ったままの刹那を見下ろして、戸惑ったような視線を寄越す。
刹那は視線を反らさなかった。
数秒見つめあった後、根負けしたようにが力なく笑った。





「そうね・・・。そうなればいいと思うわ」
「他人のことばかり考えるな。遠慮するな。願うことは他人に干渉されないんだろう?」





お前が言ったんだ、と刹那が硬い口調で言う。
何だかぶっきらぼうな言い方になってしまったかと思って、内心で彼女の反応を気にしたが、は気にした様子もなく佇んでいた。
少し考え込んで、次には刹那をしっかりと見据えた。
先刻のような心許ない瞳ではなく、穏やかながらも決意に満ちた瞳だった。
紅い唇が言葉を紡ぐ。





「もしあたしが願うことを許されるなら、貴方がこの途方もない戦いの中で生き延びてくれることを願うわ」





意外にも彼女が望んだのは刹那自身の保身だった。
この熾烈な争いの中で生き延びろ、と彼女は言うのだ。
なんだか息の止まるような衝撃を受けたが同時に嬉しくもある。
自分が生き続けることを望まれたのは初めてだった。
それはどんな祝福よりも優しく響いて刹那の胸を満たした。
そう言ってくれたに何かが言いたくて、刹那は握った手を一層強く握りこんだ。





のその願いが叶うように、俺はもっと強くなる」





強くなることばかりが叶える術ではないことくらい分かっている。それでも今自分が言えるのはそんな表面的な言葉しかなかった。
もっと言いたいことがあるのに。
なんで、どうして言葉が上手く出てこないんだ。
言いたいことは、きっとそんな、単純なことじゃない。
そう思ったのに。
は自分の手を握り締めた刹那の無骨な手に、自由になっていたもう片方の手を重ねて至極幸せそうに微笑んだ。
包み込んだ手は温かい。





「そうなればいいわね」





そんな風に嬉しそうに笑うものだから、言葉はともかく言いたいことの一つくらいは伝わっているのだろう。
例えそうでなくても、が笑うならそれでいいとさえ思える。
刹那は頷いて肯定した。





「そうなるように頑張る」
「刹那は頑張り屋さんねぇ」




また頭を撫でられて、今度はその意味に居心地が悪くなった。
もう子供扱いされるような年齢じゃない。
逃れるように身を捩ると、握ったままだった指先がするりと解けて整えられた空気を代わりに掴むことになってしまった。
途端に空虚になった手元だが、またその彼女の手を掴む理由が今は見当たらなかった。
はテーブルに置いたままだった短冊の中から赤の短冊を取り上げて、ペンのキャップを外して置いた。そして、短冊にさらさらと文字を書きつけていく。
装飾的な文字は一つの文になっていた。





「刹那が生き延びてくれますように・・・か」





刹那が読み上げると同時にはキャップをペン先にはめ込んだ。





「あたしのお願い事は決まったから。これでいいのよ」





そう言って笹に短冊を括りつけようとする。手を伸ばして出来るだけ高い所に結びたいらしい。
刹那はその背後に立って言った。





じゃ足りない。俺が括るから貸してみろ」
「あ、ありがとう。刹那」





受け取って一番高いところに括りつける。
彼女の願いが込められた赤い短冊がゆらりと揺れた。
これで願いが叶うと喜ぶ彼女の横顔を見つめながら、刹那はどこか釈然としない思いに駆られた。
顔も知らない神に願いを託すより、俺に望んだほうが確実なのに。
俺のことなんだから、の願いを叶えてやれるのは俺だけのはずだ。





「刹那も早く書いて」





はそんな刹那の思惑など知らずに無邪気に言った。
刹那は頭を振って、今はまだちゃんと言葉にできそうにないから朝になったら書けるようにしておくと言って辞退した。
はがっかりしたような様子だったが、無理強いはできないと思ったのだろう。そうね、と呟くと踵を返した。





「明日には言葉にできているといいわね」
「できたら笹に結んでおく」





そう言うと幾分か表情を和らげてくれた。それだけで彼女は場の空気を一気に和やかなものに変えてしまうのだから大したものだ。
自室に戻ろうとする彼女は、扉に手を掛けながら一度振り向いて、お休みなさい、と微笑んだ。





「お休み」





刹那も同じように返して、一人になった食堂には静寂が舞い降りる。
青い短冊を視界の端に捕らえて拾い上げる。
に言葉にはできないとは言ったものの、実際にはそうではなかった。
願うことなら彼女との会話の中で見つけて口にも出した。
の願いを叶える。
それが願いだ。
短冊に文字を認め、書き終えたそれを頭上に掲げて刹那は呟いた。





の願いを叶えられるように、強くなる」





それを叶えられるのもやっぱり自分自身だ。
刹那はその願いを胸に刻むように何度も反芻してから、の赤い短冊の隣に自分の青い短冊を並べて括りつけた。
笹にはまだ、彼女の短冊と自分のものしか飾られていない。
明日にはもっとたくさんの短冊が飾られるのだろう。
その中でも、あの優しい御手が紡いだ願いが叶うように、再び刹那は決意した。
の願いはきっと俺が叶える。
そうしていつか、この何にも例えようもない想いが何なのか。
彼女の願いを叶えたいと強く思うこの気持ちの正体が。
叶ったときにきっと気づける。
それは確信だった。
それはそう遠くない未来。
刹那ももまだそれを知らない。










御手が紡ぐもの








七夕ネタのようなそうでないような。
刹那は思ったより楽しかったですが、思った通り何がなんだかわかりませんでした;
あと毎回のことだけど文章の詰めが甘いような。
最近切実に文章を見直す必要があると思い始めてきました。
うーん、なんだかな。
                                           (2009/07/07)