膨大な量の資料を片っ端から読み漁り、ダークブルーのインクでサインを書いていく。そして資料は身体の右側に置いた箱の中へ。未処理の箱から処理済みの箱へ次々に投げ入れる。
そんなやっつけ仕事を延々続けてもう何往復したか知れない頃、不意に扉を三回ノックする控え目な音が響いた。
はしかし椅子から腰を上げるのも面倒なので居留守を決め込むことにした。
資料が終わらないのだから仕方ない。
支離滅裂な言い訳に一人で頷いたが、少しの間の後再びのノック。
遂に観念しては件の扉を開けた。





「はぁい、何か用?」
「お疲れさん。差し入れだ。一杯やろうぜ」





ずいっとシャンパンの瓶がの眼前に突き出される。驚いて後退るだったが、瓶を持った男に覚えがあった。
柔らかい栗色の髪に、春の湖水のような翠色の瞳の男の名前を呼ぶ。





「ロックオン」
「その名前で呼ばれても、まだ全然慣れないんだけどな…」





少し困ったように笑いながらロックオンは言った。
先頃新しく与えられたもう一つの名前にまだ戸惑いを覚えるらしい。呼ばれるたびに居心地が悪そうにしているのをは何度も目にしてきていた。





「でもここでは貴方はそう呼ばれなきゃ。本名は内緒でしょ?」





少し意地悪く微笑んでみせると、彼は困ったように小首を傾げた。
そういう仕種って、貴方の年齢にそぐわない気がする。
心の中でこっそり思ったが、これほど人好きのする穏やかそうな面立ちでされては面と向かって口にするのは憚られる。
しかしの浚巡をよそに、ロックオンは身を屈めてずいっと彼女に顔を近づけた。





「な、なに!」





驚いて後退るに構わずロックオンは言い募る。





「今更俺に守秘義務とかあるって思うのか?散々調べておいて」
「し、調べなきゃ招聘できないでしょ?」
「勝手に調べて、仲間になれーって連れてきて、お前の名前は兄貴が使ってた名前で呼ばれることになるぞってどんどん話進められちゃ、こっちも対応に困るだろ?なあ?」
「そうかもしれないけど…、あの、顔が近すぎるわ…」
「息抜きする時くらい好きに呼ばせたっていいだろ?酒だって良いの持ってきてやったんだ、名前の呼び方くらい指定させろ」
「なんて理屈なのよ。ニールはそんな分かんないこと言わなかったわ!…っきゃああ顔近づけないで!」
「了解しねぇとこのままキスしちまうけど、いいのか?」





とん、と小さな衝撃。
嫌な予感がしてそろそろと背後を顧みると、背中が壁に当たり逃げ場がなくなっていた。
ライルはその長い睫毛を伏せて、行為に及ぼうと顔をに近付けている。





「了解!ライル離れて!」





涙目になって降参とばかりに両手を掲げるに、ライルはにこりと満足そうに笑った。





「参謀さんは物分かりがよくて助かるぜ」
「ライルが強引なんでしょ…。はあ、もう疲れちゃったわよ…」





ライルによってもたらされた気疲れに一気に体力を奪われ、は我が物顔で自室に入る背中に溜息を漏らした。





「強引なのは嫌いじゃないってこないだ聞いたと思ったんだけどなぁ」





ライルが適当に手近な椅子に腰を下ろしながら嘯く。
どこか捉え処のない様子はやはり彼の兄と同じようで、本当にかつてのロックオンがいるような錯覚に陥る。
しかしは振り向くまでの間にその思考を振り払った。
ニールはニール、ライルはライルだ。いかに似ていようと経験したことも思想も、まるきりニールと同じということはあり得ない。
ライルはライルとして、その存在が認識されるはずであるべきだ。
そう思いながら、棚からグラスを2つ取り上げ1つをライルに手渡すと、彼はそれをしげしげと眺めて感心したように言った。





「バカラだな。旨い酒になりそうだ」
「そうねぇ。バカラで飲むシャンパンは美味しいわ」





上機嫌に片眉を上げて見せたライルが、仕掛けていた瓶のコルクを上に向けた。
気を付けろよ、と言ってから手袋を嵌めた親指で、コルクを押し出す。
空気圧の差に因って押し出されたコルクが、破裂音と共に飛び出して天井に当たって床に落ちる。コルクは数回くるくると転がっての足下に辿り着いた。
はそれを拾い上げると、指先で円を描くように回しながらふと湧いた疑問を口にした。





「あたし、お酒はすごく好きなの。シャンパンも美味しいから好き。誘ってもらって嬉しいんだけど、どうしてあたしなの?あたしじゃなくてもお酒付き合ってくれる人はいるんじゃない?スメラギ女史も誘えば食い付くだろうし、イアンのおじ様もガンダムの整備ほったらかして飲み明かすわよ?」





プトレマイオスの乗員には、戦術予報士を筆頭に酒好きな人間がぞろぞろといる。もう随分昔のことだが、戦術予報士に至っては作戦中に飲酒していたこともあり、その愛好ぶりには定評があった。
も酒として摂取できる食物は漏れなくそれとして摂取したいほど好きだが、前例がある上に一見そうとは見えない外見のためかどうもそういう席は縁遠く見られがちだ。
だからあまり酒宴の席に呼ばれた試しがない。呼ばれても供されるのはほとんどノンアルコールか、お茶だ。
訊かれたライルは目を瞬かせる。





「どうしてって、一緒に呑みたいからだろ。新年明けたっていうのに、一人でずっと仕事してる誰かさんとな」





今度はが海底のように深い蒼の瞳を丸くする番だった。





「え…新年…?あ!また!まただわ!また仕事しながら年越しちゃった!」





慌てて時計を見て絶句する。時計は0時10分を指していた。
西暦2313年1月1日。
紛れもなく旧年が過ぎ去り、新年が始まっていた。





「去年も…!一昨年も…!その前もその前も!全部仕事しながら新年を迎えたわ!有り得ない!」





うっうっと泣き崩れるの肩をぽんぽんと叩いてライルが同情の眼差しを向ける。





「戦争屋さんには年末も年始も関係ないからな…。ご苦労さん、泣き止んで酒でも呑もうぜ」
「くうっ!来年こそ…来年こそは絶対にデスクで新年を迎えたりしないから!絶対よ!ライル!注いで!」
「了解」





差し出されたグラスにシャンパンを注ぐ。細いグラスに注がれたシャンパンは小さく気泡を浮かべて静かに揺れた。芳醇な香りが水面が揺れるに任せてふわりと香る。
良い香りだ。
続いて自分のグラスにも、と瓶を返そうとしたが、前から伸びたピンクゴールドのマニキュアに彩られた細い指先に止められた。





「せっかくだもの。あたしが注いであげる」





微笑みと共に瓶を奪われて、優雅な所作で注がれる。瓶から溢れ落ちる液体が、柔らかなカーブを描いてグラスに吸い込まれた。





「サンキュ」





礼を言うと返事の代わりにグラスが掲げられた。
が微笑む。





「明けましておめでとう。新年が貴方にとって良い年でありますように」





乾杯、とグラスを打ち鳴らす。
ライルはシャンパンを一口呑むとグラスをテーブルに置いた。





「日本人は正月ってのを大事にしてるんだな。アイルランドじゃなかなかそういうことは聞かないんだよな」
「欧米人は新年よりクリスマスで盛り上がっちゃうものね。…いいわよ、日本のお正月は。一度行ってみて」





グラスを傾けては言った。
ライルはどこか懐かしむようなその声音に、組織に加わる前の新年を思っている気配を感じる。
ライルは密かにのことを想ってはいたけれど、その過去をあまり知らない。は話したがらなかったし、また彼がそれを無理に聞き出すようなことはなかった。
聞いたところできっと嫌な気分になる。
どこの誰とどんな新年を迎えたかとか、一緒に見た朝日が綺麗だったとか、そんな話を聞き出して、子供のように嫉妬するなんて馬鹿馬鹿しい。
そんなつまらない話を聞くよりも、先の、厚かましくも自分が彼女の隣にいる未来を示唆することのほうが余程有意義だ。
打算?
そんなことはない。俺は自分が幸せになるために、ただあらゆる労力を厭わないだけだ。





「それでさ…」





ライルはが“人好きのする”と評した笑顔で、彼女が座る長椅子の隣にさりげなく移動して身を寄せた。が不信感を抱かないように下手に体には触らない。距離は1メートル以内。他人とは思われていない距離だ。動かずにじっとライルの目を見つめている。上々の反応だ。
ライルは二の句を次ぐ。





「今年のアンタの目標は?」





は中空に視線を彷徨わせながら、うーんと悩ましげに唸った。
数秒間押し黙った後で、やっぱり、と切り出した。





「ここにいるうちは、世界の歪みを正すって言うのが目標ね。今年もやっぱりそれよ」
「参謀さんは真面目だなぁ。去年と同じってことか…」





妙齢の女性がする目標にしては、色気というものが感じられないが、真面目な彼女らしい目標だった。
大きく頷いたは、ライルに視線を戻すと同じように尋ねた。





「じゃあ、貴方の目標はなあに?」
「目標、な。俺も去年の下半期と同じかな」
「下半期?じゃあ途中で変えちゃったの?」
「変えたっていうか、単に途中で元々立ててなかった目標を立てただけだよ」
「じゃあ下半期に達成できなかったのね。なあに、教えて」





興味深そうにはライルの顔を覗きこんだ。
気付けばライルが注意を払ったぎりぎりの距離を越えて、彼女の柔らかい手がライルの膝に添えられている。
いつもはこちらの気も知らずに、ライルが越えられない一線を軽々と越えてくる。
なんて無遠慮。
なんて天然。
途端に負けた気分になったライルは、憮然とした表情で言った。





「内緒」



















その後ライルが持ってきたシャンパンを楽々空けてしまったは、これも美味しいからと自分のお気に入りの酒をライルにも振る舞って人心地着くと、あっさりと寝入ってしまった。
酒にほどよく上気した頬ですやすやと寝息を立てるを、ライルは横抱きにして寝室に連れていく。
腕に触る柔らかく温かい重みに、渋い顔をする。





「お前、俺じゃなかったらこのまま犯されてるんだぞ。分かってんのか?」





そっとベッドに身体を下ろして、寒くないようにと毛布をかけてやる。
静かに眠る彼女の顔を眺めていると、ふと先刻の問いが浮かんだ。
貴方の目標はなあに?
そんなのお前が知らなくてもいいんだけど。
眠っている今なら、独り言に呟いてもいいかな。
ライルは彼女の額にかかる髪を払いながら、暗闇の中で小さく微笑んだ。





「お前の傍に一生いられる人間になることだよ」





囁きは眠るにはやはり届かなかった。
反響しない声を吸い込むように、が深く呼吸する。





「そんなもんまで飲み込みたいのか?腹、壊すぜ」





苦笑して、彼女の柔らかい髪を撫でる。
そう。
こんな風に起きている間も優しく撫でていたい。
それを許される地位と特権が欲しい。
未だ手に入らない権利を思い、ライルは気付かれないように、そっと温かい額に唇を降らせた。


今年こそ、どうかその許しを得られますように。















in the dark










いい加減ライルが項目なしってのが気になって書いてみました。
ライル難しい・・・やっぱりこの人ニールじゃない。(今更)
嫌いじゃないです寧ろ好き。
悪い顔は明らかにニールより極悪な感じかなぁ。
今回はちょっといい人なライルで・・・。
                              (2009/01/06)