の朝は早い。
身支度を整えて朝食を用意するだけでなく、家中を掃除して、余った時間でその日必要になりそうな薬品の在庫を確認して、新聞を取りに外に出て隣人と挨拶などしていれば、あっという間に出勤時間だ。
病院というほど立派なものではないが、小さな診療所を医学生時代に知り合った友人と共同経営している。家賃や水道代、その他諸々全て折半。従業員も多くはないが、幸い腕が良いと評判になってそこそこの収入を得ている。
実際はリヴァイの収入のみで十分食べてはいけるが、それでも寝る間を惜しんで勉強に勤しんだ学生の頃を思い出せばおいそれと仕事を辞める気にはなれなかった。
昨夜のあれやこれやで殆ど寝ていないにも関わらず、そういう訳では眠るリヴァイを置いて定時に起床、いつもの日課をこなしていく。時折痛む関節にほんの数時間前のことが思い出されて、顔から火が出そうなほど熱くなった。
リヴァイの馬鹿。
待ってって言ってるのに無茶ばっかりするんだから。
兵士と学者の体力差を考慮してほしい。そうでなければ、男女の体力差の方を理解してほしい。
これは情操教育が必要かと考え始めたに、件の人物が声をかけた。
「おい、朝から何百面相してんだ」
昨夜のことなど何もなかったかのように、妙にすっきりした顔のリヴァイが食卓に着く。
いや、何事かあったからすっきりしているのか。房中術っていうくらいなんだからそういう作用もあるのかもしれない。ふーん、絶倫め。
会いたいとは思っていたし、当然好いて結婚したのだからそこに愛は勿論あるのだが、は容赦のない仕打ちを思い出し辛辣に心の中で罵った。
それくらいは許される、はずだ。
「どうした?」
一向に椅子に座らないを不思議に思ったのか、リヴァイが尋ねる。
妙に釈然としないものが残るが、それはさておきはにこりと微笑んだ。
「ううん、何でもない。おはよう、リヴァイ」
「おはよう」
言って互いに頬にひとつキスを交わすと、食卓に置いた焼きたてのパンケーキに、は蜂蜜とバター、リヴァイは何もかけずに食べた。
兵士であるリヴァイは普段から食事の時間も決められた数分で摂ることにしているため、そういった縛りのないより早く食事を終えてしまったが、卓を離れることなくが淹れた紅茶を飲んでいる。新聞を差し出せば、ぱらりと捲って視線が文字を追った。
はもくもくと食べ進めつつ、リヴァイを見遣る。
こんな風に二人で食卓を囲むのはひどく久しぶりだ。何も会話がなくともリヴァイがそうして目の前にいるだけで、室内ががらりと印象を変える。
穏やか、とはこの悪人面から到底似つかわしくない表現だが、この空気を形容するならそれが一番ふさわしいと思う。
一人で摂る食事は味気ない。
食器が当たる硬質な音を聞きながら、ただ空腹を埋めるためだけの食事。そんな毎日を彼がいない間ずっと繰り返していた。
失敗しても不味いと言ってくれるべき人はおらず、気に入らなければゴミ箱に捨てた。
そんな毎日。
それが今朝はリヴァイがいて、だからといって料理の感想は言ってくれもしないけれど、自分が食べ終わるまで食卓を辞さずに待ってくれている。
それだけで十分だった。多くは望んでいない。ただ、そんな世の中の夫婦が迎えるであろう朝をこうして迎えることが、今の二人にはひどく難しい。
そう思うと、我儘を言いたくなってしまって嫌な気分になった。
言ってはいけないと思いつつ、唇が意を反して滑らかに動く。
「・・・ねぇ、もう今朝で帰っちゃうの?」
「そうだな。エルヴィンに何も言わずに出てきちまったからな」
「一日くらいいられないの」
「そんなにいられるかよ。お前が出るときに一緒に出るつもりだ」
時間を気にする様子もなく、リヴァイは何の感慨もなく言った。
の出勤時間まではもう30分もない。そうこうしていれば程なくして別れの時間だ。
会いに来てくれたのは嬉しかったが、甘い気分に浸る間もなく別れるなんて付き合っていた頃より余程素っ気なく感じる。
ねぇ、普通の家なら旦那さんは夕方には、遅くたって夜には帰ってきて一緒に夕飯を食べるのよ。
その日一日どんなことがあったかとか、料理が美味しいとか、そんな他愛のない話をして、手を握りあって眠りにつくのよ。
そんな当たり前のことがこんなに難しいなんて、あなた一度だって思ったことあるのかしら。
言いはしない。
リヴァイを責めているつもりもない。彼は兵士で、当然のことを言っているにすぎない。規則を破ったのだから、報告の義務もあるだろう。彼の上司はそういう瑣末なことには頓着しない人だが、リヴァイの立場からすると有耶無耶には出来ないことも理解している。
だからこれは一人の問題だ。我慢すればいい。以前にリヴァイを送り出したときと同じように笑って見送ればいい。そうすればリヴァイだって余計な心配などせずに去れるのだ。
分かっている。それが一番だ。兵士に禍根はいらない。
だけど。
だけどね。
「」
不意にリヴァイが呼ばわった。
なんだか少し驚いた様子だったのが似合わなくて変だなとは思う。
顔をあげると、つっと目の際から水が流れ落ちた。
涙だ。
思って慌てて顔を覆った。
「何で泣いてる」
「や、これは・・・ちょっと目にゴミが・・・」
「お前、馬鹿か?見え透いた嘘なんざつきやがって。バレバレだぞ」
「っう、嘘、じゃないし・・・」
「はっ・・・だったら今すぐに泣きやんでみろ。できねぇだろうが」
リヴァイの言うとおりだ。目元を拭ったところで涙は枯れない。寧ろ溢れ出る一方だ。リヴァイを想う分だけ流れるのだから枯れようもないのだ。
こうなるんだったら下手に口を開くんじゃなかった。余計なことを言ったばかりにこんな情けない姿を見せるだなんて失態だ。
せめてリヴァイから見えないように顔を隠すのが精一杯で、しかしそれすらもごまかしようがなくては消え去りたい気分になっていた。
、とリヴァイがまた名を呼ぶ。しかし涙声で答えるなど到底出来ない。したくない。頼りないと思われるくらいなら黙っていたほうが余程ましだ。
一向に返事をしないに焦れたのか、リヴァイが派手に舌打ちした。思わずびくりと揺れる肩を見て、また不機嫌な表情になっているだろうと予想がつく。
床板が軋む。木の板が擦れる耳障りな音がして、靴裏が床を打つのがすぐ目の前に来て止まった。顔を上げずともリヴァイが俯いた顔の先にいるのはよく分かった。
ああ、怒らせてしまった。というか、失望させてしまった。
一緒になれるなら一人になるくらい平気だなんて誓わなければ良かった。
それを信じたからリヴァイがようやく結婚に踏み切ってくれたというのに、その約束さえ守れない。
はらはらと膝に落ちる涙は、どうあっても止められない。
「馬鹿が」
溜息と共に吐きだして、リヴァイはの髪に触れる。そうして、なるべく優しくその頭を胸に引き寄せた。
何が起こっているのか理解できないは、抵抗もなく大人しくされるがままになっている。
「お前、本当に泣いてばかりだな」
柔らかく滑らかな髪に頬を寄せて言った。
が泣く理由などよく分かっている。離れたくないのだ。当たり前のことを望んで、それが叶わないことを知っていて、しかもそれを自分に訴えることを邪魔になると理解しているからこうして泣くのだ。
よく出来た嫁だと心底思う。ここまで我慢強い女でなければとうの昔に別れていたとしても不思議はない。そういう女でなければ、今の今まで調査兵団などと物騒なことばかりしている自分に着いてこられるはずはなかった。
しかし、その我慢もそろそろ限界にきているのだろう。あやすように背中を撫でてやると、しがみつくようにして泣いた。
言わなければいけない。
本当は言いたくはなかった。
それを言ってしまえばはきっと二つ返事で了承するだろうから、出来ることならば絶対に言いたくはなかった。
を危険に曝すようなことはしたくはなかった。
でも、もうそろそろ。
離れているのは限界だ。
「軍医を、探してる」
「・・・ん、なに・・・」
「兵団に出た負傷者を治療するために、腕のいい医者が要る。それをずっと探してるが、どいつもこいつも腰抜けで打診しても了承しねぇ」
リヴァイ、できればお前の細君が引き受けてくれればいいんだがな。
いつかのときにエルヴィンがそう言った。
巨人との戦闘で運よく生き延びたとしてもひどい負傷のために兵士として復帰できない者が多くいる。腕や足をもがれればその兵はもう働けない。そういう者をは自分の患者として受け入れていることをエルヴィンもよく知っていたのだ。
顔を失くす者もいる。戦場に立つ彼らでさえ目を覆いたくなるような惨状の仲間を、彼女はその確かな知識と技術で怯むことなく、治療に当たるのだ。
普通に内地で穏やかに生活している者ならば見るはずのないその異様に、今まで軍医を引き受けた医者たちは早々に匙を投げた。
施しようがないと。
或いは己の危険を冒してまでその理念に追随などできないと。
リヴァイは兵士でもない彼らにそこまでの覚悟はないことは当然だと思っていたし、求めてはいなかった。
しかし、あまりに引き受ける者がいないばかりに、エルヴィンがそう言ったとき本気でこの上司を殺してやろうかと思ったのは鮮明に覚えている。
それでもそう言ったエルヴィンの顔がひどく申し訳なさそうだったのが哀れに思えたので、仕方なく言えたのはこれだけだった。
あくまで最終手段だ。俺が望めばあいつは来るが、その必要性と時を決めるのは俺だ。
軍の危急に我を通した。
そのときは少しでもに危険が及ぶのを先延ばしにしたくて恥も外聞もなく逃げたが、その時が今この瞬間に迫っていたというのはリヴァイを苦い気持ちにさせた。
いっそ断ってくれ。
そんな恐ろしいことはできないと、そんなことを勧めるなんてひどすぎると詰ってくれて構わない。
しかし、そんなリヴァイの願いなど構わず、鼻をすん、と啜ったは涙に濡れた目で言った。
「私を必要としてくれるなら行くわ・・・。きっとリヴァイの、兵団の役に立ってみせる」
決意に満ちた声にリヴァイは眉を寄せる。
「いいのかよ。ここにいるよりずっと危険だ。死ぬかもしれない。それでも引き受けるのか」
「リヴァイと一緒にいられるならどこだって良い・・・。怖くなんてないから連れて行って。・・・離れたくないの」
がリヴァイの背中を強く抱きしめる。
触れあった熱が離さないとでも言っているようで、リヴァイもきつく細い身体を抱きしめ返した。
俺も同じ気持ちだと、伝わるだろうか。
「・・・服、汚れちゃう・・・」
顔を胸元に押し付けられて、リヴァイのシャツに涙の痕がくっきりと残る。
リヴァイが潔癖であることを身に滲みて知っているは、彼から離れようと試みるが、力強い腕に阻まれて出来なかった。
「いい。どうせ乾く」
「でも」
「いいから・・・・察しろ」
逃げないように更に力をこめてやると、ようやく観念したらしく大人しくなった。
まだ落ち着かないのか、時折不安定な呼吸が漏れる。大丈夫だ、と背中を撫でながら何が大丈夫なものかと胸中で吐き捨てた。
壁外への同道はないだろうが、組織に組み込まれてしまえば最悪の事態というものを考えなくてはならない。最も考えたくないことが目の前に迫っている。
死ぬかもしれない。
そんなことは壁外へ出るときはいつも思っているが、それはあくまで自分に降りかかる災厄の想定。これからはの安否が特に気遣われる。
離れたくないと言うに今更聞かなかったことにして、了承を撤回しろと言ったところで素直に従うはずもない。
いよいよ現実味を帯びてきた最悪に、リヴァイは険しい表情で唇を噛んだ。
必ず守るとは言えない。
危険な目に遭わせないとも言えない。
寧ろ平穏な日常にいる彼女を死から一歩二歩と近い位置に歩ませた。
深く、暗い道だ。しかし、そこを手を引いて歩いてやることはできない。
自分に未だこんな甘い考えがあることは意外だったが、それでも口をついて出た言葉が本心だった。
「お前は、死んでくれるなよ」
一瞬の間。
は答えず、代わりにリヴァイの胸に頬を擦り寄せた。
この道、最果て行き
前のお話からの続き。
兵長がここまで優しいかどうかはともかく、悩んでるといいなという妄想です。
相変わらず可哀想な頭ですね!にこり!
なんか暗い話立て続けなので、次はもうちょい、ライトでポップ(?)な感じのが書きたいです。
(2013/06/27)