この家の本来の主が帰らず、もう幾日になるだろう。
はその日一日の仕事を終え、ようやく床に就いて、ふとそんなことを思った。医師を生業にしているため日中は猫の手を借りたいほどだ。あれこれと忙しなく働いている間はそんな考えに及ぶことはないというのに、一息落ち着いてしまえば彼の顔が浮かんでしまう。
思い返した彼は相も変わらず不機嫌そうで、笑った顔などそう拝ませてくれないのだから厄介だ。しかし、その不機嫌な顔でさえも随分長い間目にしていない。
夫、リヴァイの家でありながら、この家のどこにも彼の痕跡はない。横たわったベッドのシーツにさえ、だけの香りが染み付き、この家は最早が一人で暮らすにはやや大きすぎる箱でしかなくなっていた。
寂しい、というよりは、恋しい。
薬指に嵌めた指輪に、こうなることは百も承知と、それでもリヴァイが自分だけのものになるなら残される孤独など恐れはしないと誓ったというのに、いざ放っておかれるとこの様だ。
だからお前は駄目なんだ、と辛辣に吐き捨てられるのが嫌で、本部に詰めていると知っているにも関わらず、会いに行くことは殆どなかった。
仕事が忙しいから。
顔を見せたって、職場なんだから迷惑かけても嫌だし。
幾重にも会わない理由を重ねて自分に言い訳した。
「会いたいな…リヴァイ」
瞳を閉じれば、瞼の裏に焼き付いた彼の顔が歪んで見えた。
目元を伝う水に、泣いていることに気づいて更に恋しさが募る。
こんなに恋しいんだから、今晩くらいせめて夢で会いたい。
そう願いながら、意識は容易く深みに溶けていった。
どれほどの時間が経ったのだろう。
意識の外で微かな物音を聞いた気がして、は緩やかに目を開いた。
暗闇だが、僅かに窓から差し込んだ月明かり。頼りない光が、信じがたい光景を見せた。
「悪い、起こしたか」
聞き慣れた静かな声が鼓膜を震わせた。
額にかかった髪を大きな手で払われて、はこれは夢の中だと思い込んだ。
必死に願ったから夢に出たのだ。
リヴァイがこんなところにいるはずがない。
夢の中で目が覚めて、ようやく彼に会えた夢を見ている。幸せな夢だ。朝までちゃんと覚えていられたらいいんだけど。
普段の粗野な振舞いとはかけ離れた優しい手つきさえ、きっと都合よく描かれた理想にすぎない。だと言うのに、その触れた温度も硬い指先も、あまりに鮮明に過ぎて思わず笑みがこぼれた。
「どうした?」
「ん…夢なのに本当に触れられてるみたいで…私の夢って都合がいいみたい…」
不思議に思ったらしいリヴァイの問いかけにそう答えると、彼は僅かに眉をひそめてみせた。
まだ寝ぼけてるのか、と口の中で呟いて首を横に振る。
「夢じゃねぇよ。本物だ」
「ふふ…夢ならいつだってあなた、そう言うのよ」
分かってるんだから、改めて言わないでほしい。
目覚めるまで甘い余韻に浸りたい。
強情に認めないの覚めきらない目元を見やり、リヴァイはふと気づいた。
微かだが、涙が頬を伝った痕が見える。泣きながら眠ったのか。
暫く家を留守にしていたが、本部にいると伝えておいたにも関わらず、は決して会いには来なかった。
伝えたのは顔を見せに来いと示唆したつもりで、日頃から何かとリヴァイリヴァイと喧しいのこと、暇さえあれば毎日のようにやってくるだろうと踏んでいたのにとんだ誤算だ。
待てど暮らせど妻は一向に現れず、彼の苛立ちの矛先は部下たちに向いてしまった。
今日の兵長、いつもより機嫌悪すぎる。こそこそと陰で話す輩を見つけては蹴り飛ばし、殴り倒し、見かねたハンジが止めるまでに十数人が餌食になった。
そんなに気になるなら自分から会いに行けばいいじゃない。
夜もすっかり更け、リヴァイがようやく落ち着いた頃、ハンジがそう言った。いや、でも規則が、と似合わぬ正論を口走ったリヴァイに変人は舌打ち。いい度胸だ、喧嘩なら買ってやるとばかりに立ち上がりかけて、目の前にびしっと指先を突きつけられた。
規則なんか関係ない!あの子が今頃涙で枕を濡らしてたらリヴァイなんかただじゃおかないからね!駆け足!グズグズすんな!
酷い言い草だ。しかし、そう言われてはこんな所でのんびりしているわけにもいかず、すぐにリヴァイは兵舎を飛び出した。
暗闇をひた走りながら思い出した。そういえば、とハンジは古くからの馴染みで、ハンジは異常なほどにを可愛がっていた。あの酷い物言いも、彼女の心中を思ってのことかもしれない。一方でただ単に可愛がっていたをぞんざいに扱って見えたリヴァイに対しての恨みとも取れるが、或いはその両方だが、とにかく家に帰るきっかけにはなった。
そうして帰りつけばハンジの言った通り、泣いていたようでそこまで思い至れなかったことを密かに悔やんだ。
まだ僅かに濡れる目元に指を滑らせ拭ってやると、は幸せそうに微笑んだ。
「本物のほうが嬉しいくせに、これを夢だって言うのか?」
そんなはずはない。、お前が夢にまで見たこの俺をそんな容易くかき消える幻になんてするはずがないだろう。
ベッドに腰掛け、力なく放り出された手を握る。反射のように握り返しながらも、は未だ信じきれない様子で小さく、じゃあね、と呟いた。
「何だよ。聞こえねぇ」
耳を近づけると、真っ赤な唇が吐息のままで囁いた。
「本物だって言うなら証拠をみせて。私に…キスして」
するりと、握らずにいた方の手がリヴァイの首筋を撫でる。脈を確かめるような手つき。肌が粟立った。
未だ虚ろな瞳は焦点が合わず、映しているはずのリヴァイを見ていない。見ているのは幻だ。
気に入らない。そう思った。そして、彼女を一人にしすぎた代償を見た気がした。
仕方ないだろ。
がそう望む。
いつもなら頼まれたってしてやらない。
必要がない。
だってお前がいつも断りもなく重ねてくるから相手をしてやってるんだ。
でも今回ばかりは仕方ない。
そんなどこか諦めの匂う声で願うから。
伝う掌を掴むと一気に距離を詰めた。つまらない言葉ばかりを吐く唇を、自分のそれで塞いでやった。一瞬息を呑んでが怯んだ隙に更に深く。
「ん……ふ…ぁ…」
甘やかな喘ぎを繰り返し、の脳が鮮明になっていく。
酸素は足りないはずだ。それでも五感が冴え渡る。触れた体温、この家から薄れてしまった匂い、月明かりに目が映したその姿は恋い焦がれたその人ではなかったか。
は、と短く息をついて離れた唇。額の触れあう距離で、ようやく焦点があった。
「リヴァイ」
そうだ。この人。
この人を待っていた。ずっとずっと会いたくて、けれどそうはできなくて、ただひたすら待っていた。
それが今はすぐ目の前にいる。
握られた手が痛くて、しかしそれは確かに現実だった。
リヴァイの薄い唇が、なんだよ、とばつが悪そうに言う。
なんだかいつもよりしおらしい感じがするが、送り出したあの日のままのリヴァイだった。
は少し惜しい気もしたが、そっとリヴァイの戒めを解くと、首に腕を絡めてきつく抱き寄せた。
「リヴァイ」
「ああ、なんだよ」
「会いたかった。すごく会いたかった」
「ああ」
「もう何十年も会ってなかった気分よ」
「大袈裟だろ。たった数十日だ」
「でも私には耐えられない長さだわ」
「会いに来いって言ったろ」
「意図は伝わるけど、だからってそうするわけにいかないもの」
「…お前が来ないせいで、何人か負傷したぞ」
「リヴァイ…堪え性がないの、あなたも一緒じゃない」
この人の気性はよく知っている。ハンジが手を焼いただろうことを今の独白で知ったは、困ったように微笑んだ。
「本当にしようのない人。大好きよ、リヴァイ」
被害を被った人たちには申し訳ないが、そうやって明らかに示される言動が堪らなく嬉しかった。
会いたくて堪らなかったのは自分だけではない。リヴァイのとった行動は、けして許されるようなものではなかったが、はそれを頭ごなしに責めることはできなかった。
ただひとつできるとすれば、会えなかった時間を埋めるようにきつくリヴァイを抱き締めることだけだった。
「おい、いい加減離せよ」
暫くの好きなようにさせていたリヴァイが言った。そう言えば不自然な体勢を強いていたことを思いだし、は仕方なく腕を解いた。
息も触れあう距離にあった体温が離れていく。追いかけるようにして身を起こそうとすると、伸びた腕にベッドへ押し倒された。
「いい。寝てろ」
「でもリヴァイ」
「風呂に入りたいんだ」
言いながら外套と上着を脱ぎ、手近にあった椅子の背凭れに預ける。皺になるかと思ったが、クローゼットを開ければ替えがあるはずだ。はリヴァイがいつ帰ってもいいように、彼の私物や家の中を綺麗に整えている。
それでも本人は気になるのか、結局起き出してリヴァイが脱いだものを抱えて早速世話を焼きたがった。
「じゃあすぐに準備するからちょっと待って」
「シャワーで構わねぇ」
「駄目よ。そんなんじゃ身体が休まらないわ。さっき肩に触れたとき硬かったわよ」
「目敏いな、お前」
「医者ですもの」
どん、と誇らしげに胸を叩くを一瞥し、しかしリヴァイは左肩を擦りながら浴室へ足を向ける。確かに肩に張りは感じているが、それほど酷くはない。しかし、はちょっと待ってと追い縋る。主治医の制止に、仕方なくリヴァイは譲歩案を提出した。
「そんなに言うならよ、お前も入れよ」
「え?」
「何としても湯槽に浸かれって言うならそれくらいしてもらわねぇとな?そうするなら何も言わねぇ。揉むなり何なり好きにしろ」
さあ、どうする。
浴室の扉に手をかけて開いた先を促す。
は単にマッサージだけで終わるとは思わない。お互いの関係や暫く離ればなれになっていた飢餓状態の結果、裸を晒してしまえばそれはいっそそうなるのが自然だろう。
そうでなければ、関係の解消に向けて動かなくてはならないが。
リヴァイのどこか面白がったような微笑には、幸いその兆候は見られない。当たり前だ。堪えかねて会いに来たのだから別れることなど微塵も選択にない。
だとすれば、には拒否の意思などあり得ない。
それに、焦れて実力行使に出たリヴァイを宥めるのは骨折りだ。まだ優しく言っているうちに身を委ねた方が、扱いが丁寧になることは把握済み。
はふぅ、と息をつくと、手を差し出した。
「お手柔らかにね、リヴァイ」
「手心加えるのはお前の方だろう。精々励めよ」
手を取って強く引く。ふらついた夜着の腰を引き寄せ、甘い匂いを放つ首筋に噛みついた。
「あっ…ちょ、リヴァイ待って」
「待たねぇ」
「まだ、肝心なこと言ってない」
「肝心なこと?」
この期に及んでまだ何かあるのか。
剣呑に光るリヴァイの視線を受け止め、少し怯んだが、それでもこれだけは言っておかないと。
リヴァイの胸に手をついてその顔を見つめる。
「お帰りなさい」
ただそれだけが言いたかった。
リヴァイはひどく珍しく呆気にとられたように目を丸くした。
こういう表情はきっと兵団の中にいては見せないだろう。つまりは特権。のみに許されたやり取りだ。
リヴァイは暫くを凝視していたが、やがていつもの不遜ともとれる表情で言った。
「ただいま、」
言った唇が頬に触れた。
どうやら今晩はとびきり機嫌が良いらしい。
反射的に同じように頬に口づけながら、は後ろ手に浴室の鍵をかけた。
こんな真夜中では邪魔の入りようはなかったが、万が一にも二人の交歓に余計な横槍はいらない。
鍵のかかる小気味の良い音をきっかけに、はリヴァイのスカーフを取り去った。
深いくちづけで目覚める
初兵長。
というか、初進撃なんですが、時流に乗ってみました。満足!
兵長もいい年だと耳にしましたので、なら奥さんでもいってみようかという結果なのですが、字の如く自己満足でした。
楽しかったぁ!
どうにも味をしめているようなので、正規のジャンルを無視して(・・・)手を出しそうです。
何やら、背景と選んだ文字色の都合で見づらいですが、なんなら反転していただければ幸いです(笑)
どんな不親切設計・・・。
(2013/06/18)