真夜中、忍んで彼女の部屋へ降り立つ。
それはもう何度も繰り返した行動で、これがいっそ往路のみになればいいのにと思うけれど、日が昇る前には帰らなければいけない。
いつになったらこのまま先輩の傍でのんびり朝寝が出来るのだろうと溜息をついた。
それを見遣って、先輩は人の悪い笑みを浮かべる。
「退学する気あるなら、そうすればいいと思うけれど?」
「いや・・・そういうわけにも」
知っていながら意地の悪い人だ。
5年生になる今の今までこうして鍛錬につぐ鍛錬を重ねておいて、今更それを放りだすわけにもいかない。何のための5年間だったのかと後悔するには、あまりに長い歳月だ。
先輩はそうは出来ないと知りつつ、いつも意地悪にそんなことを言うのだ。でも本当は違う。その問いかけは俺が忍を目指すための覚悟をやんわりと尋ねている。その意図していることを知ってからは、最低限の位置は外れてはならないのだと自分に言い聞かせている。
そう、例えば裸の肌を合わせるような行為とか。
ある一線を越えれば、さしもの俺も歯止めがきかなくなると彼女は知っているのだろう。それはきっとその通りだ。その薄い寝間着の下に隠された緩やかな曲線には、一度目にしてしまえば抗う術はない、とそう思う。
その肌の滑らかさを知ってしまえば、今の俺のままではいられないことは確実だ。
だから、こうして忍んできても、ただ布団にもぐって眠るだけ。人肌恋しく抱きしめたまま眠って朝を迎えることもあるけれど、本当にそれだけだ。それ以上の進展は何もない。
恋仲、であることは間違いない。確かにお互いの気持ちは確認しあったし、彼女が俺に触れて甘える仕草には独特の甘さが滲んでいる。
「ん?なあに?」
じっと見つめていると気づいた先輩が呼んでいた書物を置いて、俺の傍までにじり寄った。当たり前みたいにひっついて隣に座り、俺の肩に頭を載せる。
温かくて良い匂いがする。薄布一枚を隔てただけのその距離が今はひどくもどかしい。
いっそ抱いてしまえたらこんな苦痛からは逃げられるのに。肩を抱こうと伸ばした右腕が迷うように蠢く。
いやいや、そんなことをしてしまえば、先々一体どうなるか知れたものではない。駄目だ駄目だ、絶対に駄目だ。
心の奥に唆そうとする自分と、それを必死に食い止めようとする自分が大きな声で叫び合っている。どちらの言い分も、無視するには余程無理がある。何故ならそれは紛れもなく俺の本心だからだ。
このままでは精神が完全に参ってしまうのは時間の問題だ。
先輩は一向に触れてこようとしない俺の手を面白そうに詰る。
「我慢強いのね、兵助くん。無理は身体に毒だとあたしは思うんだけど、君はどう思うの?」
「今まさに毒に中てられた状態ですよ。からかわないでください」
「生殺し?」
「如何にも。出来れば離れてもらいたいんですけど」
「そうね、考えておく」
そう言いながら彼女が離れる気配はない。この人の“考えておく”は、“考えない”が正解だ。
誘惑するように押し付けてくる身体に理性がぐらぐらと揺らぐ。情けないことに、もうひと押しされれば確実に手を出してしまいそうだ。
いつだったか、内々の会話で小悪魔系ってどうなんだろうという女性に対する嗜好の話になったことがあった。あの時はあり得ないとそっけなく返していた過去の自分の横っ面を殴ってやりたい。何があり得ないだ。いざ意中の人に唆されるとどうしようもないくらいに乱されるくせに。
とにかく限界が来る前に離れなければ大変なことになってしまう。
俺はなんとかこの状況を打破しようと、必死の思いで先輩の肩を掴んで離した。そうしてどきりとする。
細い肩だ。手を載せれば簡単に覆えてしまうような薄くて狭い肩。このまま力ずくで押し倒してしまえば、この人には抗う術なんてないのだろう。
そうだ、そっとこのまま後ろへ身体を傾かせるだけじゃないか・・・。
「・・・・じゃなくて!」
叫んで彼女から慌てて距離をとった。
危ない!今本当に危なかった!
誘いをかけられるならかわせば、なけなしの理性を総動員させれば何とかなる。でも下心がなかったとしても自発的におこした行動はどうにもならない。見るだけじゃなくて触れてしまうだけでも終わりだった。そこまで考えは及ばなかった。
思いがけない事態にだらだらと嫌な汗が額に流れる。
先輩は急に離れた俺を驚いたように見つめていた。
「兵助くん、ひどい汗よ。大丈夫?」
「大丈夫じゃないです!だからもう、本当に近づかないでください!危ないから!」
「ふぅん・・・何が危ないの?お姉さんに話してご覧。ねぇねぇ」
完全に楽しんでいる。俺が困るのがそんなに楽しいのだろうか。
怒って突っぱねればいいのかもしれない。でも、どうしてもそれはできない。惚れた弱みからか、嫌われるのが怖いからか、どちらとも判別は付き難かったが、とにかく冷たい反応は返せない。
せっかく開けた距離も簡単に詰められ、されるがままに頬を指先で突かれた。
「ふふっ」
反抗しない俺に気を良くしたようで、その行動は暫く続いた。いや、やめてほしいのは山々だけど、この幸せそうな顔を見てしまえば振り払うのも躊躇われる。
「狡いですよ、先輩は。俺が断れないのを知ってこういうことするんですから」
せめてもの反抗に、僅かな不満が口をついて出た。
振り払えないのならせめてこれだけは言わせて欲しい。
先輩は虚を突かれたように一瞬目を丸くしたが、すぐに元の笑みに戻って、そっかそっかと言いながら隣に腰を落ち着けた。
離れた体温に、拒んだにも関わらず少しだけ残念な気分になる。
しかし、そんなことは構いもせずに彼女は声に言葉をのせた。
「狡いようにしてるのよ」
「え?」
「あたしの可愛い恋人が、信念と欲望の狭間でぐらぐら揺れてるのを見るのが楽しくて仕方ないのよ」
「なっ・・・何を言ってるんですか!?」
思いがけない言葉に声が上擦る。
元々とんでもないことを冗談のように言う人だが、今の発言は聞き捨てならない。
羞恥か怒りか、どちらともつかない感情に頭に血が上る。しかし、そんな俺の反応は関係ない様子で、彼女は更に言葉を続けた。
「真っ赤になっちゃって可愛いんだから。困ったわねぇ、兵助くん。そんなんじゃあたし、もっともっといじめたくなっちゃうわ」
「先輩?それ以上言うと俺、どうなるか分かりませんよ?」
「どうなっても構わないじゃない。お豆腐以外で兵助くんをどうこうできるのはあたしだけじゃなきゃつまんないもの」
そう言って立てた膝に細い顎を載せてこちらを見た先輩が、やたらと艶っぽく微笑んだ。
だから、そういうのはやめてほしいというのに、俺の弱いところを探り当てた先輩は執拗にそこばかりを責めてくる。本当にこの人には隙なんて見せられたものじゃない。
それが一流のくのいちの才能なのか、虫すら殺せそうにない顔で、彼女はそれにそぐわない強かな一手を繰り出してくる。
「さて、兵助くん。そろそろ宵の頃だけど、どうする?」
深い色の瞳が暗にその先をほのめかす。
「いっそ誰にも気づかれないようにするなら、それも忍者の嗜みかもしれないわね?」
何を、とは言われずともその意味はよく分かる。
密やかな囁きに俺は面を上げた。
本音と建前はどうしたって違うのが世の常だ。それは先輩だって同じことで、警告を与えながらも触れあいたいとずっとそう思っていたのだろう。
不思議な力に引き寄せられるように、その柔らかな頬に手を伸ばした。
その肌は花弁のように滑らかで、俺と同じように次の言葉を期待して緩やかにその温度を上げた。
触れた肌の劣情は
やっとの思いで更新できました!
ここまで来るのに四カ月ほどは経とうかという長期放置ですみません。
書きたい気持ちはあっても中々形にできなかったのが現実です。
そういうわけで、久々の更新は豆腐小僧こと九々知くんで。
副題は、「九々知くん、くのいちの色香に流されるの段」ってとこでしょうか。
どうもあたしは彼をいじめるような話が好きなようです。いや、いじめてない話も書きたいんですが。
そうなると年上ヒロインやりづらいなみたいな感じで悶々としています。
設定はそのままに年齢だけ上下するようにしようかなぁ。
さて、今回久々すぎてhtmlの使い方をさっぱり理解できなかったために、
お友達中では一番そういうのに強いであろう、アトラ嬢に支援していただきました。
お陰さまでなんとか形になっています。ありがとうございました。
(2013/03/20)