風を受けた長い髪が靡いて、花のような甘い香りが俺に届いた。
地上から随分離れた木の枝に立って、先輩と俺は今にも眼下に潜む級友たちを見下ろしている。
六年生と五年生の合同実習でたまたまペアを組むことになった。先輩はいつものようにくのいち教室からの出向。その可憐に咲く花のような風情に似合わず、彼女は滅法腕がたつとの噂で、事あるごとに忍たまの授業に出向いているのだ。
頭数にでも加えてくれるならとほぼ断ることはないらしい。だからこそ、こうして二人きりでいる口実が堂々と言えるわけだけど、出来るならこんな形ではなくてもっとそれらしい理由で潜んでいたかった。
例えば逢引とか。
そうは言っても俺と先輩は付き合っているわけでもない。完全なる俺の片思いだ。
少し前に、先輩を人気のない静かな裏庭に呼び出して告白した。





「ずっと、先輩のことが好きでした。出来れば先輩とお付き合いがしたいです」





我ながらなんて子供染みた告白なのかと顔を覆いたくなったが、彼女を目の前にした瞬間に用意していた言葉の全てが消し飛んだ。あんなに心の中で何度も練習したっていうのに、予習は全くの無駄に終わったのだった。
気の利かない言葉に焦ったのだか、先輩に想いを告げた緊張からだか分からなかったけど、いや、多分その両方から、俺は汗腺という汗腺から嫌な汗が噴き出しているのを感じていた。
知らず俯きそうになる顔を、しかしぐっと上げて彼女の返答を待った。
初め先輩は面食らった表情を浮かべて真っ黒な眼を丸くしていたが、やがてそう、と囁いた。
そして、ほっそりした指を頬にあて、困ったなぁ、と続ける。





「何が困ったって、あたし九々知くんのことあんまり知らないのよね」





そう言われてほんの少しがっかりした。
一応とはいえ、五年の中でもそれなりにいい成績を修め、それなりに知られた立場だと自惚れていたのかもしれない。
そもそも先輩からしたら、俺は数多いる後輩のうちの一人にすぎなかったのだ。くのいち教室は委員会活動はほぼ行っていないも同然だから、彼女も手伝いでも言い渡されなければ関わることはないのだ。しかも、我が火薬委員会は委員長になるべき六年生の存在を欠いている。同級生でもいなければ彼女が立ち寄ることは皆無。
生憎、彼女と俺は先輩と後輩という接点しか持ち合わせていないのだ。
それでも俺は先輩を知っていた。食堂で同級生と談笑する先輩。鍛錬で汗を流す先輩。木陰でうたた寝する先輩。いつの間にか眼で追うようになって、背後で彼女の話題がなされようものなら耳が勝手に情報を拾うようになった。





「兵助、それって恋だと思う」





なんだか先輩が気になると、同室の勘右衛門に相談すると彼はやたらと神妙な面持ちでそう言った。
言われてここ数日の自分の気持ちに整理がついた。
整理がついてからすぐ次の日に、また彼女を目にする機会があった。
なんだあれ。よく分からないけど、ものすごく輝いて見える。
格好はいつもと同じ桃色の忍び装束だったが、眼に映る先輩の姿が妙に胸をざわめかせたのだ。
暫くその姿を見ていて、視線に気づいたのか彼女がこちらを見た。ばっちり眼があって硬直していると、ふわりと微笑んで一言。





「こんにちは。えーっと、九々知・・・兵助くんだっけ?あたしに何か用?」





瞬間かっと頭に血が上った。あの時、不測の事態が起こって逃げ出したのが惜しまれる。声をかけられた時、それとなく何か会話でもしていれば良かったのに!
でも仕方ない。不測も不測だ。先輩が俺の名前を呼んでくれた。まさか名前を知ってくれているだなんて思いもしなかった。
まあ、この人が知っていたのは俺の名前くらいの基礎的な情報のみだということは、告白の時知ったのだけど。
とはいえ、という人は、公明正大な人物であるということがよく知られている。
俺の告白を吟味して、彼女はある一つの案を出した。
これから俺のことをよく知って、知った上で告白を了承するか否かを判断すると言うのだ。
要するにまだ振られていない。その上、自分を印象づける機会まで与えてくれようとすらしている。
それからは、彼女も俺を見かけるたびに声をかけてくれたり、それさえもままならない時は手を振ってくれたりする。
今まで会話らしい会話をしなかった二人が急に接近したのを見て、もしかして付き合っているのかと三郎に勘ぐられたが、そんなんじゃないと突っぱねておいた。
あいつらには本当にそうなった時にお披露目することにします、とさっき木に登る途中で言うと先輩は楽しそうに声をあげて笑った。
今もそれを思いだしているのか、笑いを必死に堪えている様子だ。





先輩、笑いすぎじゃないですか?」
「だって、九々知くんったら真面目すぎるんだもの」
「付き合ってもないのに、そうだなんて言えないでしょう」
「あたしなら言っちゃうなぁ」
「なんで?」





意味がわからない。
眉を寄せると、先輩の形のいい指先がそこを撫でた。そういえば少し前に、痕がつくからやめろと言われたんだった。
そうしてそのまま俺の疑問に答える。





「これでもあたしは結構人気なんでしょ?実際そういうことを望んでくる人だっているし。そんな人と周りからは付き合っているように見えるなら、あたしが九々知くんだった場合、間違いなくそうだって言ってるわね。後から来た奴に盗られるなんて冗談じゃない。真実なんか後でいい。取りあえずそう言っておけば敵は随分減らせるわよ」





先輩は人の悪い笑みを浮かべた。
まあ先輩の言うことは一理ある。というか、そう言おうかと瞬時に計算した自分がいたのも事実だ。肯定していれば、恐らくそれは簡単に噂になる。あの時周囲には三郎以外にもたくさんの人がいて、会話を聞かれていた可能性は十分にある。加えて忍びとは情報を扱うのが得意であるから、忍者のたまごと言えどその扱いは手慣れたもので、あっという間に情報は学園を駆け廻り夕餉時には一人残らず周知していることだろう。
そうなれば周囲は“と九々知兵助は恋仲”という認識を示すはずだ。あとはそれを利用して搦手にすれば、恋敵が減らせる上に、もしかすると周囲が作り上げた認識から先輩だってその気になる可能性だってあるかも知れないのだ。
でも、それって何か違わないか?
俺は離れていきかけた彼女の指先を捕まえた。
寒風に曝された先輩の細い指は随分冷えきっていた。





「九々知くん?」
「それって・・・俺からしたら何か違うと思うんです」
「何が違うの?」





大きな黒い眼を丸くして、先輩は小首を傾げた。
その瞳の奥には、何か鋭い光がちらついている。
何故か気圧されてしまいそうになりながらも、俺は懸命に言葉をまとめた。





先輩の考えは尤もだと思うんです。そうすれば先輩の気が変わって、俺が望む結末も手に入りそうな気がするんですけど。でも、何かそれって卑怯じゃないか・・・とか思うんです」
「卑怯?」
「多分三郎とかに言ったらそうするのが正解だとか、言うと思うんですけど・・・俺はそういう風に先輩と恋仲になりたくない。先輩は俺のことを何も知らないからって、わざわざ俺を知ってくれる機会までくれたのに、俺がその公正さに不実であることは、卑怯とか失礼なことだなって思うんです。誠実な貴女を好きになったから、そういうずるいやり方で恋人になりたくないんです」





先輩は公正な人だ。それはもうずっと前から知っている。何においても物事の本質を見極めようとするその姿勢が、彼女を彼女たらしめているのだと俺は思う。
そしてその実直さを好いたのだ。
確かに先輩は美人で、でも可愛くて。言えば魅力なんて切りがないんだけど、でも俺が一番好きなのはそこだった。
その真っ直ぐな、という人に惚れてしまったのだから、それに見合う自分になりたいと思うのは至極当然だと思う。
どんなに必死になったって先輩と一年の年の差は埋められないし、力で勝れど技術や経験の差はそれよりも遥かに及ばない。そんな俺がこの人の横に立とうと思うなら、それなりの心根というものこそ必要だ。
能力や地位や年齢や、そんな変わりゆくものを彼女は期待していない。
望むのは、彼女の意思に沿える偽りのない心だけだ。
先輩は、俺の回答に満足したのだろうか。正解が分からない。
またいつかの時のように視線が下に向いてしまう。ああ、駄目だ。こんなのでは先輩に相応しくない。
反応がなくて溜息さえ零れかけたその時、不意に手が温かくて柔らかいものに包まれた。
思わず顔を上げると、先輩の指先を握っていた俺の手を、先輩がもう一方の手で包んでいた。
良かった、もう手は冷たくないようだ。温かい掌と同調するように、彼女の頬が赤く染まっている。
可愛いな、と思う。言えば叱られるだろうか。





「九々知くんはいい子ね」





そう言って柔らかく微笑む。
その笑顔は、多分俺が今まで見た先輩の表情の中でも一番綺麗だった。
どうしてそんな風に笑うのだろう。俺はこんなに貴女に相応しくないというのに。
俺は名残惜しくも、その手を離した。





「やめてください。偉そうなこと言ったけど、俺だっていつもそんなこと考えてるわけじゃないですから」
「でも、あたしのこと考えてくれてるでしょ?」
「考えてるけど、でもやっぱり図々しいことだって考えますよ。こうしたらちょっとは靡いてくれないかなとか」
「そんなの当然じゃない。そういうことしてくれなきゃその気にもならないもの」
「外面ばっかり良くしてるかも」
「九々知くんがその手の駆け引きが得意とは思えないな」





忍に関しては別にして、と彼女は付け加えた。
まあ確かに色恋なんて縁遠かったし、まさか自分にこんな事態が訪れようとは思っていなかったから何をどうしたらいいのかも分かっていないけど。





「だったら直球しかないじゃないですか」





自分はそうするしか術を知らない。
面と向かって好きだという他、先輩に気持ちを伝える方法なんて考えられないのだ。
幸運は、彼女がその一世一代の告白を無碍にするような人ではなかったということだ。これがもし他のくのいちだったらと思うとぞっとする。くのたまなんてその殆どが忍たまを人とも思わぬ扱いをするのだから、きっと俺の精神は無事では済まなかっただろう。
ああ、やっぱり先輩は凄い人だ。改めて惚れ直す。





「そうね。直球でこられると女の子は弱いわ」
「でも先輩がその気になってくれないと何の意味もないですけどね・・・」
「そうでもないわよ。ねぇ、九々知くん」




そう言って先輩は俺を手招いた。近くに寄れということらしい。
俺は失礼します、と言ってそっと身を寄せた。
周りを木の葉に隠されて外界と遮断されたその中で身を寄せ合うと、一層先輩が近くに感じられた。
僅かな遠慮と、僅かな下心。相反するものが胸の中で混ざり合って息もできないほどだ。
この人を思うと苦しくなる。いつか先輩に殺されるのかもしれないな、なんて馬鹿みたいなことを考えた。
花の香りか、先輩の香りか。くらくらしそうな芳しさに溜息をこぼす。
もうこのまま命数が尽きても構わないとすら思ってしまう俺に、彼女がその玉の転がるような声で止めを刺した。





「どうしてくれるの、惚れちゃったじゃない」





甘やかな言葉が、俺の胸の一番柔らかいところを貫いた。










それこそ本望













そういえば馴れ初めみたいな話はどのジャンルでも書いたことなかったな、と思って書いてみました。
最期の台詞も、もっとこう、なんかいいのなかったかなぁ。
なんとなく兵助には紳士的なイメージもってるらしいです、あたし。
ひたすら相手のことを思っての選択しかしないみたいな話になりましたが、豆腐言ってないと誰かわかんない!
次はちゃんと豆腐って言わせるようにします。。。
                                                          (2012/05/06)