そうだなぁ、お前は随分強情だからそう簡単に嫁の貰い手があるとは思えないな。





懐かしい声だ。もう何年と聞いていない声。そしてもう二度と聞くことの叶わない声。
はぼんやりとその声のする方に目を向ける。然程明るくもない空間の中に三人の男の後ろ姿が見えた。
冗談混じりの声に、別の声が心外だという風に反論した。





そうでしょうか、兄上。この子はこれでも御近所では一番の器量良しで評判なのですよ?今にたくさんの男たちから求婚の誘いがあることでしょう。





は重い頭を振って記憶を探る。
いつかにこの人たちがしていた会話だ。まだ年端もいかぬ自分の話を肴に酒を呑んでいた時の。
不意にその背中を眺めていた視線がくるりと回って、気づけば声の主たちを下から見上げる形になっていた。
見れば、自分の姿もいつもの忍び装束ではない。淡い色の、上等の小袖だ。そこから伸びる四肢が短く、丸みを帯びているので、は自分が子供の頃の大きさになったのだと悟った。
大人が子供になるなんて現実にはあり得ない。これは夢だ。
身体は子供ながら、知識や経験は現実の15歳の自分のままだ。しかも夢と知っているなら不安がる必要はない。
黙ったままでいると、一番年嵩の男がの脇の下に手を入れて抱き上げた。そのまま膝に乗せてくつくつと楽しそうに笑う。
そういえば、確かにこういう風に膝に座らせられたことが多々あった。懐かしい。
大人しく座っていると否定した男が、の頬を優しくつつく。次兄だ。この人はいつもこうしてを構って楽しんでいた。されるがままになっていると、懐から甘いお菓子を出して口に含ませてくれるのだ。待っていると、やっぱり掌に飴をひとつ寄越してくれた。
それを静かに眺め最後まで黙っていた少年が、長兄の隣に腰を下ろした。年若く、よりも僅かに年上なだけの兄は興味もなさそうに言った。





あったところでこいつが大人しく従うとは思えないけどね。





年が最も近い故か、末の兄は彼女の心境を的確に言い当てていた。
生きている間は何かと傍若無人な人物で辟易したものだが、ことこういう場面では最も頼りになる存在だったのは言うまでもない。
しかし、悲しいことにこの兄の見解はややもすれば現実にならないかもしれないのだ。
否定するだけの材料がなければ有無を言わさず、兵太夫と結婚させられる。
どうしよう、兄上。このままじゃどちらにとっても良くないと思うのです。
このままでは、将来有望であるはずの彼の道を閉ざしかねないのです。
重荷をおしつけられて、一時の感情のままに一緒になって、いつか後悔するのでは遅いのです。
もうこの世を去った人に縋るのは不可能だと、しかもこれは夢であると知りながら、は手を伸ばした。
いつも助けてくれていた兄たちに手を取ってもらえさえすれば、きっと何かが変わるのだと思っていた。何がどう変わるのかというと、そういうことは分かっていはいなかったけれど、しかし縋らずにはいられなかった。
伸ばした幼い手を、彼らは静かな瞳で見つめていた。しかし、一向に手を取ってくれる気配はない。寧ろふと気付けばその姿は徐々に遠のいているように思えた。





「兄上・・・?」





乾いた喉から無理矢理紡いだ声は僅かに掠れ、はっきりと発音されなかった。
吐息だけの呟きに兄たちは返事さえもしてくれない。
どうして?
どうしてなのです、兄上。
いつもそうしてくれたように、手を。
どうか。
必死に手を伸ばすが、兄たちは凪いだ海のような穏やかさで頭を振った。





こちらじゃないよ、





困ったように長兄が言う。





お前が行くのはあちらだよ。





そう言って彼らとは反対側、の背後を指さした。
遠い彼方に小さな光が瞬いている。ちかちかと光って北の夜空に浮かぶ指針の星のようなそれに、は目を細めた。
光に手はない。しかし、こちらだと招かれている気がする。
はそっと手を伸ばした。
光が一層強くなって、温かな空気がその手を掴んだ。





















「・・・・・っ!」






四方を覆っていた闇が晴れて、視界に明るい光が入ってきた。
焦点の合わない目を擦り、ようやく視界がはっきりする。もう何年もたっているであろう色褪せた天井を眺めていた。身体の下の乾いた布の感触。布団だ。横たえられている。そして、独特の薬品の匂いが漂っている。そうか、ここは保健室だ。昏倒したために運ばれたのだろう。
は視線だけで頭上を見回して、しかしすぐにやめた。頭が重い。
さっきの小平太のボールはなかなかの衝撃だった。普段の自分なら確実に避けられていただろうに、情けない。
はぁ、とわだかまっていたような息を吐き出すと、不意にぎゅっと手が握り締められた。





さん」





聞き慣れた声に、それがすぐに誰かを知った。
ああ、もうなんでこういう時まですぐ傍にいるのか。
は少しの諦めと安堵に目元を緩めた。





「・・・兵太夫」





名前を呼ばれた兵太夫は、が横たわる布団のすぐ傍に座ってその手を握っていた。
ほっとしたような、少し怒っているような、複雑な表情を似合いもしない幼い顔に浮かべてこちらを見ている。





「ずっと、あたしの手を?」





握られたままの手を持ち上げては尋ねた。
兵太夫はこくりと頷いて、ここまでのあらましを語った。
授業中に校庭が賑やかだと思って眺めていたら、が見えて具合が悪そうに見えたこと。心配だななんて思って気にしていたら、小平太がアタックしたボールが見事にに命中したところを目撃してしまったこと。授業が終わってから慌てて保健室に向かって、そしてが目覚めるまで手を握っていたのだということ。
そこまで語り終えて、彼は溜息を吐いた。





「本当は授業を抜け出して保健室に駆け付けたかったんだ」
「いや、そこは授業受けなさいよ。君、何のために学校入ってるの」
「・・・補習受ければいいんだ、そんなの。どうせ毎回補習ばっかりだよ。土井先生、厳しいんだ」





いじいじと布団に突っ伏して兵太夫は言った。
お世辞にも良いとは言えない成績に投げやりになっているらしい。
そういうところは子供らしいんだから。
は半身を起して、握られた手とは反対の手でその小さな頭を撫でてやった。
兵太夫は繋いだままの手に更に力をこめて、頭を上げないまま呟いた。





「だって心配したんだ・・・。一番に駆け付けて傍にいたかったのに・・・」
「大げさよ。ちょっとそっくり返っただけじゃない」
「そんなことない・・・保健室に飛び込んだら傍についてたのは立花先輩だったし・・なんだかものすごく気に食わない」





仙蔵に嫉妬しているのだろうか。
如何にも納得がいかないという風に不機嫌に呟く声に、は苦笑した。
授業も投げ出して駆け付けたいほどで、更に委員会の先輩に嫉妬するほどの感情を抱かせるなんて、自分は過去、一体この幼い後輩に何をしたのだろう。
覚えがないものの、そうしてまで自分を求めてくれる兵太夫はなんだか可愛い。
慕われて悪い気はしない。しかし、それを受け入れることはしないなんて、本当に悪循環だ。
酷なことをしているという自覚はある。
だからこそ離れなければいけないのに、困ったものだ。このしっかり握られた小さな手を振りほどくのは、どんな緊縛を解いていくよりも余程困難だ。
さらりと流れる髪に指を絡めていると、とどめとでも言うつもりなのか、彼が僅かに顔を上げて囁いた。





さんが大変な目に遭ったときは、僕が一番に助けてあげたいんだ」





ああ、そう。
そう言ってしまえたらどんなに楽だっただろう。
助けを求めて伸ばした手を取ってくれなかった兄たちの残像がちらつく。
結局その手を握って現実に引き戻してくれたのは、その気持ちを受け止めてあげられないままでいる兵太夫だった。
助けてほしいと願ったを引き上げたのは、紛れもなくこの幼い手。しかも、何が何でも一番に助けたいと言うのだ。
それは彼女にとって殺し文句以外の何物でもない。
心の内を見透かされたような言葉に、胸の奥が締めつけられた。





さん?」





返事のないが気になって兵太夫は身体を起した。
そうして一瞬だけ驚いたような顔をして、けれどもすぐに困ったような笑みを浮かべた。あいている手をそっとの頬に滑らせる。





「泣いちゃうだなんて大げさだよ?」





触れた指先にぽろりと零れた涙を掬いあげる。それだけでまたの黒い瞳からじわりと涙が溢れた。
そうだ、ずっと前にもこうされた。兄たちの庇護を受けていた。
けれどそれはなくなって久しい。数年も前に失われたものだ。夢で見てもこれは現実ではないと悟れるほどに。
それでも焦がれた家族は、真実を知りながらも愛おしかった。
伸ばした手は握り返されることはなかったけれど、帰るべき場所を示して、帰りついた先には固く手を握り締めてくれる熱がある。
そのことが本当は得難いもので、当たり前ではないことを思い知らされる。本当はそれが兵太夫を完全に遠ざけることができない要因でもあるのかもしれない。
受け入れられないけれど独りにはなりたくない。
我儘な願いを、執着を知って、兵太夫はそれでも自分のことを好きだと言ってくれるのだろうか。
掌はとめどなく流れる涙を拾い上げて優しく頬を撫でている。その手にそっと触れてみた。兵太夫はそれを受け入れ、払い退けることもしなかった。ただが話出すのを待っている。





「夢を見たのよ」
「夢?どんな?」
「死んだ兄上たちの夢。助けてほしくて手を伸ばしたんだけど取ってはくれなかった」
「うん・・・」
「でも、あたしがいるべき場所は兄上たちの傍じゃなくて、こっちだって帰されたわ。そして目を開けたら君があたしの手を握ってくれていた・・・」
「うん。目覚めるまでずっとそうしてるつもりだったよ」





ぽつぽつと語るに、兵太夫は静かに頷く。
彼はの兄についてはあまり知らない。何かの折に仙蔵から、戦で死んだと聞いたことがあっただけでそれ以上のことは聞かされていなかった。
それでもこうして夢に見るまでに大切だったということは理解できる。
いつも独りで立っているような人だから、つい見落としてしまいがちだが、その背中からは不意に孤独が見え隠れする。それはきっとこの世を去った人たちへの思慕の念なのだろう。
だから兵太夫は繋いだままの手をもっときつく握り締めた。
助けてほしいと言うなら、僕が助けてやる。
独りが嫌だと言うなら、僕がずっと傍にいてやる。
死人には到底及ばないのかもしれないけれど、それでも少しでもの気持ちが治まるなら。
そんな願いをこめて握った手は、思いがけず細い指先に握り返された。
赤い目をして、彼女が笑う。





「ありがとう、兵太夫」





涙で汚れて、いつものように上手に笑えていなかったけれど、その笑顔が安心しているように見えた。
きっと少しはこの人の孤独を癒してあげられたんだ。
笑顔の出来なんてどうだっていい。ただこの人が穏やかに笑ってさえくれれば。
そう思って、兵太夫は同じように相好を崩した。
それだけで満ち足りた。










ずるい人と、更にそれを利用しようとするずるい子供。  みたい  な・・・。
兵太夫の性格が御留守です。どこに行ったの。
                                     (2012/11/18)