足取りも覚束ないを部屋まで送ろうとしたが、大丈夫だからと断られた。
まあ無理もないけどね。
突然知らされた事実に眩暈が治まらず額を押さえたまま去っていく彼女を見送ってそう思った。
はおおらかなように見えて、実は体面を非常に気にするところがある。自分との年齢差や立場、負うべき重責に思うところがあるのだろう。真面目な人であるから、必要以上に考えてしまうのだ。
その辺りはおいおい納得させることにして。
兵太夫はとは対照的に軽い足取りで自室に戻っていく。
だって嬉しいじゃないか。あんなに遠くから見るだけで終わっていた相手が実は許婚だったなんて、一体前世の自分はどんな良い行いをしたのだろう。そうでなければ悲惨な目にあってその清算にこんな夢のような状況を神様が作り出したかのどちらかだ。
思うだけでも自然と笑みが零れる。
は上級生にも、下級生にも人気がある。所謂“憧れの君”、というやつだ。
他のくのいちみたいに意地悪なことはしてこないし、たまに分けてくれるお菓子は毒もなく甘くて美味しい。
虫も殺さないような顔をして、刀を持たせれば戦女神も裸足で逃げ出すほど強くてかっこいい。そういえば潮江先輩に勝ったと聞いたのはつい最近のことだ。
人当たりが良いから誰ともなく気さくに話しているから、あとはあの笑顔で見つめられれば落ちない者はいないのだろう。周囲に人がいるときは億尾にも出さなかったが、かく言う兵太夫自身もそれに敢え無く陥落した一人だ。
はっきり言ってしまえば、兵太夫はのことが好きだった。それも、多分上級生が思うのと同じ意味で。
ちょうど良いことに、兵太夫は彼女よりも幼いために、上級生が手を握りたいがどうしたものかと逡巡する場面でも手を伸ばせば躊躇いもなく握ってもらえることが多々あった。
その理由の殆どははぐれ防止とか、子供特有の可愛らしさで彼女の母性に訴えた結果だったが、その利点を活用しない手はないと兵太夫は思う。結果彼女が自分に興味を示して笑いかけてくれるのなら子供扱いもそう悪いものではない。
あざといと言われればそれまでだが、戸惑うばかりの男のままでいることの方が余程みっともなく女々しくはないか。





「おじいちゃんも中々気の利いたことしてくれるなぁ」





記憶の底に埋まったままだったその面影を思い起こして呟いた。
兵太夫の祖父は彼が物心つく前にこの世を去っている。従って面影どころか顔さえも殆ど思いだせないのだが、なんとなく気難しい人であったのをぼんやりと覚えている。
はっきり言ってあまり好きな部類の人ではなかったけれど、その彼が取り決めた縁談は兵太夫にとっては僥倖だ。
気分よく自室に戻ると、同室の三冶郎が既に帰っていて、彼の顔を見るなり眼を丸くした。





「どうしたの、兵太夫。すごく機嫌よさそうだね」
「わかる?ちょっとね、良いことがあったんだ」





どうやらすぐ見て分かるほどに顔が緩んでいるらしい。
頬を引っ張って締りのない顔をどうにか元に戻そうとするが、全くうまくいかない。ああ、顔がにやける。
三冶郎はその理由を余程知りたいらしく、頻りに兵太夫に尋ねた。





「ねぇ、どうしたの?僕にも教えてよ」
「えー、どうしようかなぁ」
「いいじゃない、同室なんだし。親友じゃないか」
「うーん・・・」





言いたくないわけがない。
みんなが憧れる先輩が将来は自分と夫婦になるだなんて、自慢したくて仕方ない。
一方で、しかし、と非常に冷静な自分がいる。
は足取りも怪しく消沈しきった状態だったが、去り際にこのことは公言しないように、と兵太夫にきつく言い含めた。詳しくは言わなかったが、おそらく彼の将来を思ってのことだろう。彼女は後輩の将来が大人に勝手に決められてはならないと考えているのだ。
それを敏感に感じ取った兵太夫は、これを簡単に他人に言うのは彼女の厚意を踏みにじることだと考えた。
それに打算だが、こんなことでの心証を悪くするのは得策ではない、という計算も組みあがっている。
色々な状況を鑑みるに、言うは易し。しかし最善とは言えず。
兵太夫は一年は組の生徒にしては、他人の心の機微には非常に鋭く、且つ計算高い一面があった。とはいえ、悲しいことに彼はまだ十才になったばかりの子供で、それなりに詰めの甘さも持ち合わせていた。後にこのことを後悔するとも知れず、胸に湧き上がる高揚感のまま、懸命に理由を聞き出そうとする親友にそっと耳打ちした。





「内緒だよ?絶対誰にも言っちゃ駄目だからな」





やっと真実を知ることができる三冶郎は、大きく頷いた。






















まずいことになった。
夜も更けた頃、は布団に包まって文字通り頭を抱えて悩んでいた。
あの後、異議を申し立てるべく学園の早馬で実家に帰ろうとしたのだが、追いかけてきた小松田が思いもよらない台詞を口走った。





ちゃんのお父上は、お供を連れて熊野詣でご不在だそうですよぉ」
「なっ・・・なんですってぇ!?」





片足の萎えた者が熊野くんだりまで出かけていくのか。いいや、絶対にこのことがあるからあえて家を留守にしたに違いない。道中は馬を使えばいいし、供がいれば身の回りは事足りる。
しかも、熊野とくれば暫く帰ってはこないつもりだろう。
我が父ながら、なんという周到さ。しかも娘の行動をしっかり読んでいる。
あまりの展開の速さに追いつけず、は卒倒しかけた。
先輩、しっかり!と馬を準備してくれていた八左ヱ門が慌てて抱きとめてくれなければ、生垣に頭でもぶつけて本当に気を失っていたかもしれない。





「いっそそのまま故意にぶつけてれば良かったかしら・・・」





そうしたら父もそこまで嫌なのかと考えを改めてくれたかもしれない。
いや、今の仮定にはおかしなところがある。
別には結婚自体を嫌だと言っているわけではないのだ。政略結婚などは珍しくもないし、自分だって必要とあればそうすることには何の躊躇いもない。
だが、相手が不憫でならない。まだ年端もいかぬ兵太夫が大人の都合で永遠の伴侶を定められてしまうのが納得できないのだ。
せめてもうちょっと年を重ねてからとか。いや、重ねたところであんな五つも年の離れた弟のような子と結婚するわけにもいかないのだけど。
その年齢差もあってか、万に一つもがあの子を愛するということは考え難いところがあった。
一方で愛がなくては駄目なのか、という学園長の言に彼はそれなら大丈夫と胸を張った。
ずっと好きだったから。
だから大丈夫。
あまりにも幼い理由に溜息が洩れた。
きっと年の離れた自分に、背伸びした憧れを恋情とでも勘違いしているのだろう。結婚なんてしたことはないけれど、好きだという理由ただ一つで成立するものではないことをは感覚的に知っている。





「どうやって諦めさせようかな・・・。あの子、結構強情だし」





閉じた瞼の裏にさえあの可愛らしい笑顔が焼き付いている。
可哀想だが、なんとかして諦めさせる必要がある。
そのまま布団の中でごろごろして、はっと気付けば朝日が昇っていた。
窓から差し込んだ柔らかな日差しに呆然とする。一体何刻悩んで夜を明かしたのだろう。とにかく起きだしていつもの装束を纏い、顔を洗うべく外に出た。
ああ、頭が痛い。昨日からの眩暈もまるでおさまっていない。
のろのろと歩いていると、級友のくのたま達がに気づいて目を丸くした。





「おはよう、。なんかふらふらしてない?」
「ん・・・ちょっと色々あって・・・」
「顔色も悪いわよ」
「寝てないもの。何か気づいたら朝だった」





欠伸をしながら言うと、健康管理も大事だからね、と釘を刺された。
分かってはいるが、あれほど衝撃的なことがあったのだ。それを無視して眠れるほどの図太さは持ち合わせていない。
案外神経が細かったのか、と己の不甲斐無さに更に重い溜息をついた。





「しっかりしなさいよ。あんた、今日は忍たまの授業出るんでしょ?」





そういえばそうだった。
くのいち教室の授業以外に組み込んだ予定。今日は忍たまの授業に出向する日だ。確か朝一から体育の授業だったはずだ。





「あー・・・サボりたいぃ・・・でもサボるなんて授業料の無駄ぁ・・・」
「まあねー。それに六年で理由なく欠席すると内申響くしねぇ」
「てゆーか、って自分で志願して忍たまの授業出させてもらってるんでしょ?それでサボってたらまずくない?」





その通りだ。少数ながら六年生の今まで忍術学園にいる友人たちの洞察は鋭く的確だ。
どうしてこんな状態になったのか、と理由は聞かないだけ良心的かもしれないが、ふらついている自分を授業に、しかも忍たまのきつい授業に向かわせるなんて悪意しか感じられない。
そして、現実とはかくも非情である。





「「あ」」





朝から気まずい人物に会ってしまった。
朝食を摂ろうと向かった食堂に続く廊下で兵太夫とはち合わせてしまったのだ。視線を泳がせるとは対照的に、兵太夫はにっこりと微笑んで嬉しそうに挨拶した。





「おはようございます、さん」





昨日許したからか、ちゃっかりその名で呼んでいる。隣りに立っている三冶郎が、ぎょっとした顔で彼を見ていた。
昨日まではきちんと先輩と呼んでいたのに、急に名前だけで呼ぶようになっているのが衝撃だったのだろう。これは兵太夫に色々注意しなくてはならない。
は三冶郎の頭に手を置くと、食堂の奥を指さした。





「三冶郎、奥に竹谷がいるから挨拶しておいで。あと、兵太夫ちょっと貸してね」
「あ、はい・・・先輩」
「ありがとう。たくさん食べるのよ。おいで、兵太夫」
「はーい」





間延びした声で返事した兵太夫を伴い、適当に注文して盆を持って対面に座る。
お茶で唇を湿らせてから口を開こうとしたところ、先に彼が声をかけた。






「顔色悪いみたい。さん、昨夜よく眠れた?」





気遣わしげな視線に、たっぷり含まれた甘いものにますます不安定になる。
ああ、この子はいつもこんな眼であたしを見ていたのか。
気づきもしなかった事実が、今は異常なほどの圧力に感じられる。やめておいた方がいいのよ、と一言言ったところで彼の気が変わるはずもないのを知っているから余計たちが悪い。





「ううん、全然。あたし、神経が随分細かったみたいよ」
さんはすごく繊細なんですよ。自分のことなのに知らなかったの?」





ふふ、と笑う様が妙に大人びている。
あと何となく昨日を思えば口調が随分と砕けたような感じがする。嫌な気分はしないけど、複雑だ。
いずれ結婚すれば、年下といえど兵太夫はが仕えるべき主人であり、夫になる。相応の態度をとるべきなのは当然だが、それにしたってまるでとうに結婚したようなその発言がの口調をとがらせた。





「・・・なあに、それ。あたしのこと何でも知ってるみたいな言い方」
「気に障った?」
「少し」
さんが思ってるより僕は貴女のことずっと見てたよ。だからひょっとしたらさんよりさんのこと知ってるかもしれない」
「あたしは君のこと、それほど知ってるつもりないのに?」
「それはこれから知ってくれたら問題ないと思うよ」
「あのね、兵ちゃん。昨日のこと蒸し返すようだけど、あたし、あれからずっと考えたの。やっぱりこの縁談、あたしは呑めないわ」





そう言うと、兵太夫は魚を咀嚼してから呑みこんで、意地の悪い笑みを浮かべる。





「嫌です」





そう言うと思った。しかもこういう時だけ敬語だ。
それにしても昨日の文を読む限り、笹山家はとにかく強情のようだ。現に兵太夫も彼女の提案を悉く蹴っている。そんなにこだわるほどの条件なんてないのに、彼は気持ち一つで決めてしまう気でいる。
これは説得に骨が折れそうだ。
ところで兵太夫も彼女について同じようなことを思っていた。
考えが地に足がついていて隙がない。普段は思ったより隙もあるのに、こういうことは何て言うか抜け目がない。





「それに、あんまり人がいるところでさん、なんて呼ばないで。変な噂広まっちゃったらどうするの?」





さすが保守派。
思った通りの反応で、兵太夫には彼女の感情が手に取るようにわかった。
ここは素直にごめんなさいとでも言っておいたら良いのだろうが、兵太夫は敢えて首を縦には振らなかった。





「あのね、兵ちゃん」
「嫌だよ。絶対に前みたいに先輩だなんて呼ばない。好きにしろって言ったのはさんなんだからね」
「言ったけど・・・でも、それが悪い方向にいくなら」
「いくもんか。例えいったとしても婚約解消なんてしないし、おじいちゃんが決めたことを覆せる人なんてうちにはいないからね。それはさんちだって同じでしょ」
「そうだけど・・・」





思ったとおり強気で押すと途端に彼女は弱くなる。というか、本当に年下に甘い。心を鬼にして言いたいこともたくさんあるのだろうが、兵太夫の様子を窺ってなるべく傷つけないようにと言葉を選んでいる節がある。
それに寝不足も祟ってか、いつものような鋭敏さに欠けている。
よし、あとひと押し。
まだ何か言っているを適当に流しながら、兵太夫は残りのご飯をかきこんでいく。そうして全て食べ終わったところで彼女が言いかけた言葉をごちそうさま、の一言で遮った。





「待って、兵太夫。まだ話は・・・」
「言っておくけどさん、僕にそんなこと言ったって無駄だよ」





言うと、はわけがわからないといった様子で小首を傾げた。
そうするだけでなんて可愛いんだろう。何となく兵太夫の心の底にもっと困らせたいという気持ちが広がっていく。
なるべく優しい声で子供を嗜めるように、彼女だけに聞こえるように囁いた。






「僕はさんが言う悪い仮定は全部否定するよ。だって夜も眠れないくらいに僕のことばっかり考えてたなんて可愛いこと言ってくれるしね」
「・・・っ!」





息を呑んで真っ赤になった顔が本当に可愛くて仕方ない。朝からこんな表情まで見られるなんて本当についている。
頭の中が真っ白にでもなったのか、二の句を告げないでいるをよそに、兵太夫は上機嫌に微笑んで盆を持って立ち上がった。





「じゃあ、お先に失礼しまーす」





元気に後輩らしく挨拶してその場を去った。
追いかけてきたらしい三冶郎が隣りに立つのを待ってから、兵太夫は言った。





「ね、本当だっただろ?さんと許婚になったって」
「うん・・・。でも先輩すごく困ってたね。兵ちゃんのこと心配してるみたい」
「まあ、ありがたいけどさ。そういうとこ好きだし。でもさぁ」





うん、と三冶郎は頷いた。
兵太夫は笑っているがこういう顔を見せた時、大体が不穏なことを言っているのが殆どだ。
悪い癖だな、と思いつつ三冶郎は続きの言葉を待つ。





「だからって逃がしてあげる気はないからね」





いい笑顔でそう言った兵太夫をみつめて、三冶郎は心の中でに合掌した。
先輩、大変な奴に好かれちゃったみたいですよ。






背後で人が倒れる音と、驚いた周囲の人が世話を焼く声が聞こえた。
















ようやっと三話め。
そろそろ本性が見えてきた兵太夫って感じでです。
ところで、毎度のことですがきったプロット通りにお話が進みません・・・。
誰だ、食堂のシーンなんか入れたの。
                                     (2012/06/12)