※ハンジ分隊長、ややウザ注意です!





「いいですね、分隊長。今日の業務を終えるまで一切この部屋からでてはいけませんよ」





何だお前、私のお母さんか。
額に青筋を浮かべたモブリットに椅子に座らせられ、ペンを握らされ、目の前には積載を超えた書類がうず高く積み上げられた。
試しに書類の山から一枚引き出してみると、バランスを崩したその山は一気に雪崩を起こし、机を滑り落ちて床に散らばった。





「いやぁあっはっは無理無理こんなの終わんないよ無理無理」
「無理じゃないです。ハンジ分隊長さえ本気を出していただければ、遅くとも深夜までには終わります」
「私には巨人の研究っていう大事なお役目があるんだよ」
「これが終わったらご存分に」
「今やりたい!すぐやりたい!」
「駄目です」
「それが終わったら絶対に書類整理するから!」
「いけません」





にっこり笑ってモブリットは即座にハンジの要請、もとい我儘を切り捨てる。
こんないい年をして、今まで何人もの母親が言ってきたようなことを頭から浴びせられる。なんて嘆かわしい事態なんだ、とハンジは掌で顔を覆った。
いくらなんでも卑怯だと思ったから今まで言わずにいたが、今日こそこの手を使わねばなるまい。
この状態を打開するべく、ハンジは顔の前で手を組み合わせ、殊更仰々しく言った。





「こうなれば上司命令だ。今すぐ私を開放しなさい。書類整理は後日徐々に片づけていくこととする」





どれほど口喧しく説教したところで、彼は所詮自分の部下だ。権力を振りかざして命令してしまえば、モブリットとてそう強くは出られないはずだ。
ハンジの重々しい命令に呆気に取られたらしいモブリットは、目を丸くして口をあんぐりと開けている。中々傑作だが、それをずっと眺めている暇はない。ハンジはその隙に椅子から立ち上がり、彼の脇を抜けて退室しようとした。が。





「どこに行く気ですか。まだ一つも片付いていませんよ」





横から伸びた手にがしっと腕を掴まれ制止させられた。
どういうことだ。いつものモブリットならここで煙に撒くことができたはずなのに。
瞬間的に思考を巡らせるハンジに、今日は珍しく強気なモブリットが追い討ちをかける。





「分隊長より更に高位の上司に命令されていますので、貴女には従えません」
「は?何それ?つか、誰それ?まさか・・・」
「はい。エルヴィン団長からの命令でして」





書類が一切片付かないのだと顔を合わせた折に訴えると、エルヴィンが、なら捕まえて椅子に縛り付けてでもさせればいいんだよ、などと言ったらしい。
余計なことをしてくれた。モブリットも、エルヴィンも。
直属の上司よりも更に上の上司を頼って、より高位の命令を下させるなど、のほほんとした顔の割にモブリットは思いの外強かだった。
ぎりぎりと歯噛みするハンジに、強大な後ろ盾を得たモブリットはここぞとばかりに次なる一手を仕掛けてくる。
最も強い切り札だ。ジョーカーと呼ぶにふさわしいそれを、躊躇いなく放った。





「これ以上不毛な言い合いに興じて仕事を放棄した場合は、先生には暫く分隊長とは会わないようにお願いしますので、よく吟味なさってくださいね」





投下された一言に、ハンジの顔がみるみる真っ青になっていく。
そうしてのろのろと席に戻り、いつになく暗い表情で書類にサインし始めた。普段多弁な人物なだけにこうも黙々と筆を進めるその様子は、長年部下として付き合っているモブリットとしてもある種の恐怖を覚えてしまう。
しかし溜まりに溜まった事務仕事、しかもハンジ分隊長の署名、指示の必要なそれらを一気に片付けてしまうにはこの一言が一番効くのだ。
”の名詞一言で、この上司は全ての行為をその名の下に優先する。
同性でありながら恋人だと言って憚らないその存在を、ハンジは異常なほどに崇拝している。しかも相手は既婚者。人妻だ。不健全極まりない。しかしまあ、元々異常な人物である彼女に、その他更に他人とは違った性質があろうとも、少々のことでは驚かなくなったのは当然のことだ。自然なこととして受け止めてしまえるくらいには些細なことだと、モブリットは思う。
そう、とにかく仕事に託けて遊びにいかない限りは、彼女に特殊な性癖があろうとも問題はない。着々と積みあがる処理済みの書類の山脈に、モブリットは満足そうに頷いた。
大人しく与えられた仕事を片付けていく上司のために飲み物でも用意しようかと席を立ったとき、室内に控えめなノックの音が響いた。
それまで大人しくしていたはずのハンジが、弾かれたように面を上げる。
その様子に違和感を感じつつも、モブリットは応対しようと扉に足を向けた。





「いい!私が出る!」
「あっ、ちょっと・・・」





途端、椅子を蹴立てて立ちあがったハンジに押されよろめきながらも、嬉々として見えるその背中に溜息を吐いた。
ハンジより先に、件の彼女に言っておくべきだった。
悔やんでも既に遅く、ハンジがいそいそと開いた扉の向こうには、彼女が愛してやまない恋人の姿があった。





〜!会いたかったぁ!」





頭一つ分は低いを胸に抱きこみぎゅうぎゅうと締めつける。
ぶつかった衝撃で蛙が潰れたときのような悲鳴が上がったが、その長い腕が解かれることはない。必死でもがいているようだが、髪が乱れるばかりで一向に拘束から逃れられていない。
気の毒に思ったモブリットは、ひとつ咳払いするとハンジの肩を軽く叩いた。





「分隊長、先生が死にそうです」
「え?ああ・・・」





触れあいを邪魔され、少し不機嫌そうな表情を見せたが、ハンジは仕方なくを離した。
解放されたは一息つくと、盛大にぐしゃぐしゃにされた髪を手櫛で整えながらハンジを見上げた。散々な目に遭いながらも、その視線には一切の責める色がないのが、彼女の穏やかな気性を表している。





「ごめん、嬉しくて力入りすぎちゃったよ。ああ、でも。あなたが私に会いに来てくれるなんて本当に嬉しい。今、モブリットに死の宣告をされてもう一生会えないかと思ったんだよ」
「大げさですよ・・・。ちょっと我慢して仕事すれば、先生にだってリヴァイ兵士長にだって好きなだけ会わせてあげますよ」
「リヴァイいらない。私にはがいればそれでいいんだよう!ねー、!」
「?ねー??」





手をハンジに握られながら、訳も分からず同意を強要されているにモブリットはますます同情を禁じ得ない。
この強引なまでの押しに、この小柄な女性は自分よりも長い間曝されているのだ。それでも変にスレずに、真っ当で常識的な意見を述べてくれる。なんて貴重な人材だろう。
同情ばかりではなく、改めて尊敬の念を感じてしまう。
聡い彼女はハンジの向こう、テーブルに積み上げられた紙束を見ておおよその状況を把握したらしい。
やんわりとさりげなくハンジの手を取ると、聞き分けのない子供に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。





「駄目じゃない、モブリットさんを困らせちゃ。仕事してたんでしょう?」
「いいの。のほうが大事。今モブリットがお茶を淹れるからそこに座って」
「あのね、ハンジ」
「早く早く!この席が一番暖かいよ。私の一番のお気に入りなんだ。が使っていいからね」
「ちょっと聞きなさいってば」
「あー・・・先生。良ければ、その、付き合ってあげてください。こう言いだしたらこの人聞きゃしませんから」
「でもそれじゃ、私モブリットさんのお仕事をお邪魔した形に・・・」
「構いませんよ。どちらにしろ分隊長の気分はもう先生一色だし、お茶にするのは本当にこのタイミングだったんでちょうど良かったかもしれません」





離した手を再び取られテーブルに連行されるのを何とか踏みとどまろうとするに、モブリットは力なくそう答えた。
まあいい。こうなってしまってはこちらの言うことはまるで聞き入れないだろうし、その上本人を取り上げようものなら臍を曲げ、十中八九書類の山を片付けようとしないのは目に見えている。
それならばせめて休憩と称して適度に触れ合わせておく方が、後々良い結果になるだろう。
モブリットはやれやれと肩を竦めると、お茶を用意すべく続きの間へと下がった。そこには簡易のキッチンがあって簡単なものなら作れるほどの設備が揃っている。元は研究に明け暮れ寝食を忘れて部屋から出ようとしないハンジのために、せめて食事くらいはとモブリットが設えさせたものだった。
棚を開けていつものようにカップとソーサーを取り出す。そしてハンジが用にと用意したもう一揃いも。
薬缶に火をかけ沸騰を待っている間も、彼女たちの会話が漏れ聞こえる。





、靴を変えたの?いつもと違う足音がしたよ」





おいおい、足音でもこの人を認識しているのか。
動物、特に人に飼われる犬は主人の足音と他人のそれとを簡単に聞き分けると言うが、まさか我が上司においてもその能力が備わっているとは驚きだ。しかも靴の違いによる微妙な変化さえ聞き分けている。これは恐れていいはずだ。ハンジ分隊長、怖すぎ。





「うん、この間リヴァイが買ってくれたのよ。たまには労ってやる、ですって。ちょっとは優しくプレゼントだよとか言えないのかしらね、あの人」





そう言いながらも、の声は嬉しそうで本当にその贈り物を喜んでいるようだった。
リヴァイ兵長がどう言うかは知れないが、彼は妻たるを随分可愛がっているように見える。傍目にも彼らが並んで立つ姿には割って入れない親密さがあるのだ。かと言って周囲に押しつけがましい印象はなく、清々しい。
これが夫婦というものかと、未婚のモブリットは将来のまだ見ぬ妻に思いを馳せた。
しかし、それを快く思わない者もいるには、いる。





「ふぅん・・・・・」





途端地を這うような相槌に、モブリットは手にしたカップを落としそうになる。
ハンジ・ゾエだけは確かにその関係は気に食わないだろう。が絡みさえしなければ、腐れ縁らしく他愛もない会話に花を咲かせていたりするが、彼女の話題が上るや否や徹底抗戦の様相だ。
そのたびリヴァイはうぜぇ、の一言で一蹴するが、大体それで終わることは殆どない。年甲斐もなく乱闘に傾れ込む二人、主にハンジを止めるのは勿論モブリットだ。
リヴァイはリヴァイ班の面々か、その場にいるならエルヴィン団長。たまたま通りかかれば。元凶でありながら簡単にその場を収められる唯一の存在だ。その様子からも彼らのへの関心の高さが覗える。
しかし、そんな女神のような助け手でも、難点は存在する。彼女は少しばかり空気を読むことには不慣れなのだ。その揺るぎようのない事実は今の状況を見るに明らかだった。
あからさまに機嫌が急降下したハンジに向けて、は次々とリヴァイの話題を提供する。
昨夜の帰りがすごく遅かっただの、シャツにアイロンをかけ忘れて叱られただのと、他愛もない話だったが、応じるハンジの気配はどこか不穏だ。それでも我慢して耳を傾けている辺り、本気で好いているのだと理解できる。ああ、そのひたむきさを他の事務仕事にもむけてくれればいいのに。
ハンジはの会話が終わるまで辛抱強く聞き、切りのいいところでようやく話題を切り替えた。その内容もが興味を示しそうなもので、彼女の唇からは玉石の転がるような笑い声が零れる。
モブリットが準備の整った茶器を持ち二人に給仕する頃には、上司の顔にも晴れやかな笑顔が戻っていた。





「ありがとう、モブリットさん」
「どういたしまして。お熱いうちにどうぞ」
が淹れてくれたものよりは劣るけど、まあそこそこいけるよ」
「またそんなこと言って」
「本当のことだし」





また好き勝手なことを言っているが、モブリットは賢明だったので黙っておくことにした。
ここで何か言ってハンジを不機嫌にさせるわけにはいかない。
全ては溜まりに溜まった仕事のためだ。






















「それじゃあ、そろそろお暇するわね」





一時間ほどした後、は席を立った。
まだいれば良いのに、と渋るハンジに微笑みかけ、彼女は首を振る。





「いい加減帰らないと、お仕事終わらないでしょ?いつまでもモブリットさんを待たせちゃダメよ」
「だってあんなの面白くないじゃん。私としては、とお茶してるか巨人の研究してるか、そっちの方が楽しいんだよ」
「聞き分けのないこと言わないで頂戴。ご褒美はするべきことが終わってからなのよ」





確か彼女はハンジより年下のはずだ。それなのに、この差はどうだろう。
母親にされるように頭を撫でられ諭される様は、大きな子供のようだった。しかし、大人しくその言葉に聞き入っている。さっき私が言い聞かせたときは不満たらたらだったくせに。
はぁ、と重い溜息を吐きつつも、ハンジはその言い分を受け入れることにしたようだった。
を扉まで見送り、別れの言葉を告げている。





に言われたから大人しく仕事するよ。また来てくれるかい?あなたが来てくれないと息がつまりそうになるんだ」
「うん、また来るわ。きっとよ。だから、ちゃんとモブリットさんの言うことを聞いて我儘言わないでね」
「うん・・・またね、
「さよなら、ハンジ」





名残惜しそうにその背中を見送るハンジに、モブリットは少々声がかけ辛い。
空気に呑まれ、躊躇う部下をよそに勢いよく振り返ったハンジは、いっそ清々したとでも言うように高らかに告げた。





「さあ、仕事仕事!とっとと終わらせて夕飯でもかっ食らってくるかぁ」
「はぁ・・・あの、結構なんですけど、先生のことはもういいので?」
「ああ、ねぇ・・・」





再びテーブルに戻ったハンジの横顔にはいつもと同じ冷静さが戻り、つい先刻までの緩みきったそれとは違い、モブリットを大いに不安がらせた。
ハンジはペンを取り、くるくると長い指で弄びながら、僅かに唸って低い声音で呟いた。





「どうしてあの娘はあんなにリヴァイがいいんだろうね。私のほうが大事にするのに」
「はぁ・・・まあ、旦那さんですからねぇ。他人がいなければお優しいんじゃないですか」
「どうだか。いつもあいつは駄目だ、まるでなってない、なんてリヴァイは冷たいのにね。褒める言葉なんて聞いたことないよ」
「はぁ・・・」





それも他人に触れさせるところではないと判断してリヴァイが言わないのでは、と思考したが余計なお世話な気がしたのでこれも黙っておいた。
そこに思い至らないほど愚かな人でもないし、とうに考えた理由のひとつでもあるだろう。
ハンジは残りの書類に目を通しながら、本気かそうでないか反応に困る一言を投げかけてくる。





とリヴァイの仲さえ引き裂けたら、あとはなし崩しにでも私のものにする自信はあるんだけどね。何かいい策はない?モブリット」
「ええっと・・・分隊長?冗談ですよね?」





体中の毛穴という毛穴から嫌な汗が噴き出す感覚。
物騒な物言いに青ざめるモブリットに、しかしハンジは冗談だよとは言わない。室内用の眼鏡の奥の目は笑ってさえいなかった。
とはいえ、モブリットとて歴戦をハンジの右腕として生き抜いてきた兵士だ。眩暈でふらつきそうになるのを、なんとか踏みとどまる。





「さしでがましいようですが、一言」
「うん?構わないよ」
「そういうのは、馬の蹴られて何とやらとも言いますよ、分隊長」





実際蹴るのは馬ではなく、リヴァイ兵長自らという可能性の方が高いですけど。
後半は口には出さず、思いとどまれとの願いを込めて言った。
しかしハンジはそんな部下の思いなどどこ吹く風と言った様子で、ただ艶然と微笑んだ。





「望むところだよ」








馬に蹴られる覚悟です










思ったより分隊長がウザくなりました・・・うわぁ。
本当はここまでモブリットを出すつもりもなかったんですが、がっつり出演していただきました。
口調はこれであってるのか微妙ですが・・・;
ハンジもこれであってるのか不安が残りますが、変なところがありましたらご指摘お願いします!
                                                  (2013/08/16)