「じゃあこれはお願いしても大丈夫?」
「うん。これくらいなら、明日には資料は出せるはずよ」
アレルヤが手渡したコーヒーのカップを受け取りながら、は薄く微笑した。言う間も、書類とPCの画面から目を離さずにその内容を確認している。
伏せた薄い瞼にひいたラメのアイシャドウがきらきら光る。睫毛は漆黒で空を見上げて長く伸びている。
その美しい造形を見遣り、アレルヤはうっとりと間延びしたような声で呟いた。
「なんだか悪いなぁ・・・。は僕の頼みより他にもやらなきゃいけないことはたくさんあるのに・・・」
「いいのよ、気にしないで。気になるなら・・・そうね。今度ご飯でも奢ってもらえれば嬉しいな」
「え、えっと、それは地上に降りたとき?」
「うん、降りたとき。一緒に降りましょうね」
そこで顔を上げたと眼が合って、にこりと微笑まれる。
彼女の瞳に映った自分が顔を真っ赤にして、慌てたように視線を外した。
なんだか無様な様子だ。情けない。
それでもやっぱり嬉しい。
デートのお誘いだ。資料を纏めるお礼のために、という名目だけれど嬉しいものは仕方がない。
資料の内容は、地球における各陣営のドクトリンの変遷と詳細についてレポートとして纏めてスメラギに提出するというものだった。
簡単に纏めてくれるだけでいいから、と引き受けたものだったが、調べるうちに複雑化していきどうにも処理がおいつかなくなったとき、アレルヤに背後から声がかかった。
その内容、もう古いわよ。
季節が夏であろうと関係なく涼やかに響く声に振り向くと、そこにいたのはスメラギの参謀でありながら自身も優秀な頭脳をもつ軍師≠ナもあるその人だった。
参謀=軍政治顧問である彼女は常に正確で新しい情報をその頭脳の中に持っている。そのリサーチの迅速さはソレスタルビーイングの技術の結晶たる演算装置「ヴェーダ」を凌ぐほどだという専らの噂だ。
その彼女が言うには自分が頭を抱えて調べ上げている情報も既に古いもので、内容としては非常に不十分とのことだった。
こんなに苦労して調べたのに・・・と項垂れるアレルヤにはその資料を自分に任せるお礼として食事に誘ったのだ。
資料に眼を通しながら万年筆でさらさらと何かを書きつけていくの横顔を盗み見ながら思う。
大人の女性で、おまけに美人。ティエリアと並べばなんだか周囲がきらきらして見える。
勝気で冷静だけど、結構破天荒。
僕との関係は、恋人。
顔が熱い。
一緒に出かけるのだって嬉しいけど、すごく緊張する。
しかも彼女が誘ってくれなければ、自分から誘うことは殆どというか、ない。全く。
誘いたくないどころか、本当は誘って色んなものを彼女と見てみたいと思うのだが、どうしてもその言葉が出てこない。
彼女は自分より幾分か大人で、未成年の自分が誘えるところなんてたかが知れている。
仮に公園に行こうと誘ったところで、がいい顔をするとは思えない。
そんなところは彼女に似合わないし、日ごろから出かけていく場所とは思えない。
それでも彼女は紙束に視線を添えたままで、楽しそうに笑った。
「ふふっ、楽しみね。そうだ、出かけるなら他にもどこか行きましょうよ。あたし、公園に行きたいわ」
「こ、公園??が?」
「なあに、変?公園、嫌?」
「や・・・嫌じゃないんだけど、が公園って言うと思わなかったから・・・」
あと、内心を読まれたのかと思ったから。声がひっくり返ったんだよ。
それは口に出さず、アレルヤは曖昧な笑みを浮かべる。
はカップを両手で持ってふぅふぅしながら、ふーんと興味もなさそうに唸った。
「別に公園でなくてもいいのよ」
「え?」
アレルヤが聞き返すとはコーヒーを嚥下して、舌でちろりと唇を舐めた。
やたらと官能的な仕草にアレルヤの心臓が大きく跳ねる。
「水族館でもいいし、遊園地でもいいし、会議室でもいいし、そうね、トレミーならどこだっていいとも言えるわ」
が難解な呪文のようなものを天気を問うような気軽さで語る。
そういえば通り名で魔女とかなんとか呼ばれることもあるとか言っていたっけ。
どんな魔女だろう。
まだ全てを教えてはくれない。彼女は用心深く周到だ。
また一口コーヒーを飲んで、が言葉を次ぐ。
「食堂でも、ブリッジでも。ちょっと淫縻だけどお風呂でもね」
「あ、あのあの、ちょ、待って!どういう意味かよく分からないよ・・・。僕にも分かるように話してくれないかな・・・」
公園から最後はお風呂だなんて飛躍しすぎている。
片手を挙げて遮ると彼女はぴたりと語るのをやめてしまった。
その辺りは軍人気質なんだろうなと思う。きちんと訓練された兵士のそれだ。合図があるまで声は出さない。
この組織の中で最も軍人らしい矜持で行動しているのはなのだろう。
「食事に行くのもいいし、公園に行くのもいいよ。僕も君とならどこにだって行きたい。でもなんでそんなにたくさん?トレミーの中ならいつもと変わらないじゃないか」
「だって・・・分からないの?」
「行くならどこでもいいけどね。そう、どこでも」
「待って、そんなこと重要じゃないの。アレルヤ、分からないの?」
ぐい、と細い指がアレルヤの腕を引き降りてきた銀の瞳と視線を合わせる。
彼女の青い、海のような瞳がかっちりとそれを捉える。
何度か逡巡したように紅い唇を開きかけ、しかし閉じてしまう。
「どうしたの。言って?」
促すように長い艶やかな黒髪を撫でると、は小さく瞬いて猫のように頭をアレルヤの胸に押しつけた。
すり、と一度鼓動を確かめるように頬擦りよせ小さく呟く。
「・・・・・・・・ないの」
「なに・・・?聞こえないよ」
がもう一度囁く。今度は小さくても聞き取れるようにアレルヤの耳元に。
紅い唇が艶やかに光る。
「アレルヤのいる場所ならどこでもいいの。貴方がいない場所には意味がないの」
ああ。
彼女はなんて言ったのだろう。
鼓膜を伝って脳へ送られるその呪文。
難解なその呪文。
もし僕の解釈が正しいのならその意味は。
「僕がいる場所にいたい・・・それが君の望みってこと?」
少しの間のあと、こくんと小さな振動が胸に伝わった。
それはちょっと反則にすぎるよ、。
堪らずに預けられた温かくて細い身体を抱きしめる。ぎゃあとかなんとか、らしくもない声が彼女の口を吐いて出たが、もう構ってなんて居られなかった。
ぎり、と音が鳴りそうなほどに抱きしめる。
が苦しそうに溜息を零すが拒否される気配はなかった。
代わりにそろそろと背中を撫でられる。
なんだかちょっと乱暴だ。照れてでもいるのだろう。
乱暴にアレルヤの背中を撫でながらが小さく抗議する。
「アレルヤ・・・、ねぇアレルヤ。こんなところで・・・」
「ごめん、ちょっと今は無理だよ」
「人が来ちゃうでしょ」
「来たら、来ただよ。もう辛抱できない・・・」
「分かる、けどね・・・アレルヤ・・・」
「・・・もう、黙って」
誰が来るかなどはもう関係がなかった。
寧ろ始めから興味がなかった。
アレルヤは未だでもと繰り返す魔女の言葉と呼吸を、静かに甘く呑みほした。
呪文を呑みこむ
いつものことですが、非常に難産なお話でした。
あたしってあんまり想像力ないな、なんてことは昔から重々理解していること・・・・。
(2008/9/15)